龍泉寺本堂・開山堂及び位牌堂・観音堂及び御茶堂・庫裏・鐘楼
本堂
本堂内観
開山堂及び位牌堂
観音堂及び御茶堂
庫裏
鐘楼
国登録の年月日
平成25年12月24日
所在地
新城市出沢字的場田
年代
本堂:文政3年(1820年)
開山堂及び位牌堂:昭和6年(1931年)
観音堂及び御茶堂:観音堂/文政5年(1822年)、御茶堂/昭和10年(1935年)
庫裏:天保14年(1843年)/平成19年改修
鐘楼:昭和30年(1955年)
登録理由
本堂
敷地のほぼ中央に山を背景に南面して建つ。入母屋造の堅牢な建物で、風格を漂わせる。
開山堂及び位牌堂
本堂の北側に増築された建物である。本堂と一体となって歴史的景観を形成する建物である。
観音堂及び御茶堂
本堂の西側に建てられており、渡り廊下で本堂とつながる。切妻造の建物で、観音堂と御茶堂双方の間にある柱と壁を共有する増築方法をとっている。
庫裏
本堂の東側に位置する。切妻造の建物で、一部改造はあるものの当時の姿をよく残している。
鐘楼
本堂の南東側に建てられている。本堂等に比べ建築年代は下るが、他の建物と一体感が形成されるように建てられている。
(登録理由:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
構造、形式及び大きさ
本堂
木造平屋建、瓦葺、124平方メートル、文政3年(1820年)
開山堂及び位牌堂
木造平屋建、瓦葺、56平方メートル、昭和6年(1931年)
観音堂及び御茶堂
木造平屋建、瓦葺、40平方メートル、観音堂 文政5年(1822年)、御茶堂 昭和10年(1935年)
庫裏
木造平屋建一部2階建、瓦葺、148平方メートル、天保14年(1843年)/平成19年改修
鐘楼
木造、瓦葺、6.6平方メートル、昭和30年(1955年)
内容
龍泉寺は豊川の右岸に所在し、建物の背後となる北側が山地であるため南側に開けた地形となっている。その沿革は寺所蔵の資料等によれば永禄元年(1558年)に廣釋寺という名称で創建され、慶長11年(1606年)には滝川寺と改称し、寛永期に龍泉寺となり現在にいたる。
本堂は、梁間10m、桁行12mほどで、入母屋造で桟瓦葺である。壁は漆喰仕上げが施され真壁[1]である。木製の階段を上がり、本堂に入ると路地とよばれる部分となる。 その奥は大間・内陣となる。大間は竹の節欄間[2]と小壁によって中央と左右に分かれる。内陣は中央に須弥壇を置く。
開山堂及び位牌堂は本堂の北側に増築され、北側敷地の境界近くにある建物である。切妻造、桟瓦葺で外壁は板張で一部漆喰仕上げとなっている。棟札より棟梁は中村敬三であることがわかる。平面構成は、梁間4.5m、桁行9.5mほどの長方形の平面で、本殿から北に向かって渡殿、位牌堂、開山堂と続く。
観音堂及び御茶堂は、本堂の西側に建てられており、本堂と渡り廊下でつながれ、東側に正面を向ける。観音堂は本堂完成の2年後に建築され、御茶堂は観音堂に訪れる人々がお茶を飲み休憩できるようにと、昭和に入ってから観音堂の南側に増築された建物である。屋根形式は切妻造、桟瓦葺で、外壁は板張、一部漆喰仕上げとなっている。棟札より観音堂の棟梁は馬場武左衛門、御茶堂の棟梁は内田政次郎であることがわかる。
庫裏は、本堂の東側に接して建てられている。居室部分と土間・調理場部分からなり、切妻造で桟瓦葺である。壁は漆喰仕上げが施され真壁である。建築年代は棟札により確認できる。本堂に接して玄関を持ち和室が6部屋あり、土間と調理場がある。この調理場は現在床が貼られ、土間から独立しているが、平面形態や天井の形状から現在の調理場も土間の一部であったことがわかる。
鐘楼は本堂の東側、庫裏の南側に建設されている。入母屋造、桟瓦葺で、石組の基壇上に建っている。柱は4本とも内ころびとなっており、天井は格天井となっている。棟札より棟梁は菅谷収蔵である。
[1] 真壁:日本の伝統的な壁の納め方で、柱や梁などを見せて納める壁。
[2] 竹の節欄間:竹の節のような切れ込みをつけた小柱の上下に横木を渡し、中をたすきがけの桟で埋めたもの。
お問い合わせ
新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館
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