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永住寺本堂ほか 6棟

ページID:303182747

更新日:2020年1月9日

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永住寺本堂・開山堂及び位牌堂・庫裡及び書院・禅堂・衆寮・経蔵

 永住寺の伽藍建築は前庭を囲む南面の東西廻廊がないものの、近世の曹洞宗寺院の中核寺院における伝統的な伽藍構成を整えている。江戸時代、曹洞宗では地方寺院において禅僧の九旬安居の制が執行され、常恒会地、片法幢会地、随意会地などの格式の寺院では、その間に結制を行うことが定められ、そうした寺院では本堂、庫裡、禅堂、衆寮、山門などの伽藍を整える必要があった。中でも、東海地方は曹洞宗寺院が多く、愛知県は1000カ寺以上の末寺があり、全国的にも集中している。その中にあって近世曹洞宗の中核寺院として、本堂・庫裡・書院・禅堂・衆寮、山門などの伽藍を一体的に残す寺院は数少なく貴重である。その中で永住寺の建物群は保存状態も良く、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」、「造形の規範となっているもの」として国の登録文化財となった。

愛知県永住寺01本堂正面(南)
本堂

愛知県永住寺04本堂内陣前面
本堂内陣


愛知県永住寺12開山堂・位牌堂の東側面
開山堂及び位牌堂(東面)


庫裏南西
庫裡(南西から)

愛知県永住寺28庫裡勝手土間釜戸(西方向)
庫裡内部


愛知県永住寺51禅堂正面(東)
禅堂


愛知県永住寺47衆寮前面(東)
衆寮

愛知県永住寺50衆寮南西隅
衆寮南西角


愛知県永住寺61経蔵東面
経蔵


国登録の年月日

令和元年12月5日

所在地

新城市字裏野

年代

本堂:元禄10年(1697年)/享保2年(1717年)(杮葺から瓦葺へ改修)

開山堂及び位牌堂:明治26年(1893年)

庫裡及び書院:文化7年(1810年)

禅堂:享保7年(1722年)

衆寮:享保7年(1722年)

経蔵:江戸末期

登録理由

本堂

 境内中央に南面して建つ。入母屋造桟瓦葺の建物で、広縁は元は縁と土間で書院に通じていた。曹洞宗本堂の特徴を残す。

開山堂及び位牌堂

 本堂の北側に続く切妻造の南北に長い建物。開山堂は前方に奥行2間で、位牌堂は奥行7間で東西両側に位牌壇を設ける。

庫裡及び書院

 本堂東側で書院が接続し、中庭や廊下を介して南の庫裡へ続く。廊下は建物内部西側に矩折れの土間通路である。曹洞宗伽藍を特徴づける大規模な建物である。

禅堂

 本堂南西に東面する切妻造の建物。禅宗伽藍の構成要素である。

衆寮

 本堂南西に当面する切妻造の建物。南の禅堂とは一段低い屋根を架けた通路を設ける。建物内部は東側に土間を通し、2列6室から成る。禅宗伽藍を構成する特徴的な建物である。

経蔵

 境内の北東、書院北方に南面して建つ土蔵造の小建物。伽藍を構成する要素である。

 (登録理由:造形の規範となっているもの 本堂・開山堂及び位牌堂・庫裡及び位牌堂・禅堂)

 (登録理由:国土の歴史的景観に寄与しているもの 衆寮・経蔵)

構造、形式及び大きさ

本堂

木造平屋建、瓦葺、298平方メートル

開山堂及び位牌堂

木造平屋建、瓦葺、107平方メートル

庫裡及び書院

木造平屋建、瓦葺、702平方メートル

禅堂

木造平屋建、金属板葺、72平方メートル

衆寮

木造平屋建、瓦葺、105平方メートル

経蔵

木造平屋建、瓦葺、9.9平方メートル

内容

【寺院の沿革】

永住寺は延命山と号し、本尊を釈迦如来とする曹洞宗の禅宗寺院である。

 永正10年(1513年)、大谷城主の菅沼定広が上平井村(現新城市上平井)に鵬雲文翼和尚を迎えて一寺を創建したが、文翼和尚は開山を大洞院の琴室契音禅師とした。元亀4年(1573年)、野田城の戦いの際に武田信玄の兵火により寺は焼失したといい、天正2年(1574年)に作手亀山城主の奥平貞能が新城村裏野の現在地で再興したと伝えられる。

 慶長11年(1606年)、新城城の城主 水野分長は本堂を再建し、寛永4年(1627年)には山門を建立している。慶安元年(1648年)、旗本で交代寄合の菅沼定実が領主となると、幕末まで菅沼家の支援を受けることとなった。

【伽藍配置】

曹洞宗の中核寺院の伽藍では、庫裡と禅堂・衆寮とを繋ぐ回廊が東西に通り、その中央に山門をおき、本堂の前庭を廻廊がロの字型に囲むものが一般的である。

永住寺の伽藍配置は、南北に長い敷地の中軸線上の南端に山門をおき、山門を北に進むと広い前庭がおかれ、その奥に本堂が南面して建つ。前庭を中心にして東側に庫裡及び書院、西側に衆寮、禅堂、鎮守殿が北から順に置かれ、前庭は建物に取り囲まれた状況となっている。また、本堂の北には位牌堂・開山堂が接続し、東は書院と接続しており、両建物が面する本堂北東部は広い庭園となっている。また、その庭園脇の書院北方地には小型の経蔵が配置される。

本堂の広縁はかつては通路土間であり、庫裡及び書院の西側内部の通路土間は本堂と庫裡および書院とを鉤型に繋げていた。また、衆寮・禅堂の内部の土間もかつては通路土間であった名残と思われる。そのため、これら通路土間が廻廊の役割を果たすものと考えられる。当寺では東西回廊は設けられてないが、前庭の周囲に建つ建物をコの字に結ぶ構造は曹洞宗寺院の伽藍配置の特徴に類似している。

【伽藍建築】

(1)本堂

本堂は桁行6間(16.57m)、梁間7間(14.290m)、入母屋造、桟瓦葺(旧杮葺)、南面建ちである。間取りは、堂内の前方に幅2間強の広縁を通し、その後方に前後2列、横3列の6室を設け、東側室外に幅1間の廊下を付け、西側に幅1間半の広縁を通している。後列中央間を「内陣」とし、内陣前面の柱2本(露柱)および内陣奥の来迎柱2本を丸柱とする他は総面取角柱とする。

堂内では、現在前面広縁(幅2間半弱)に畳を敷き、棹縁天井を張り、各室境では柱間に敷居・鴨居・内法長押を通し、前面広縁と室境では内法上には明り取り障子を入れている。前列中央の間の前面では中央柱間のみ内法を高めて楣を渡し、その上には両脇間を含めて筬欄間を嵌めている。前列中央の間は間口3間半、奥行3間の21畳とし、行事の中心的な空間とされる。その両脇の部屋では内法上の3分点に吊束を入れて筬欄間を入れており、行事の際に次室とされ、前列東の間(15畳)に優婆塞(信士)、前列西の間(12畳)には優婆夷(信女)が控える。後列東の間は12畳半、後列西の間は10畳で、棹縁天井を張り、いずれも内部に室礼を設けていない。内陣は、前面の柱間3間では中央を高く虹梁を3スパン渡し、上に彫刻欄間を入れ、柱上に頭貫、台輪を通し、三ツ斗斗栱を置いている。内部は板敷とし、中央後方に来迎柱を立て、柱上に頭貫、台輪を通して出組斗栱を置き、上部に格天井を張っており、来迎柱間には禅宗様須弥壇を設け、柱間上部に火頭形の開口部を設け、仏龕を造出して本尊仏を祀っている。内陣の奥に位牌堂・開山堂を続けている。

 現在の堂前面広縁は幅2間強の畳敷としているが、当初は手前1間が通路土間(露地)、奥の幅1間強が大縁(広縁)となり、露地は前述のように庫裡と衆寮・禅堂を繋ぐ通路として復原される。これは、堂両側面の前端柱間には土間から6尺強の高さに差し鴨居の取付き痕跡があり、堂正面入口の柱間にも同様の痕跡が残され、これらの柱間が当初通路土間の出入口であったことが分かる。また、堂内では、前列中央の間の南側中央、内陣南側柱間3間を除き、室境の敷居・鴨居に建具溝が残され、当初は引違い戸が入れられ、各室が間仕切りされていたことが分かる。さらに、本堂西側の幅1間半の広縁は外から1間半内側の柱列の外面に風蝕が認められることから、当初広縁が無かったことが分かる。さらに、堂正面と西側の柱間の鴨居には建具の3本溝が残され、当初は出入口を除く各柱間に板戸2枚、障子1枚を入れていたことが分かる。

 この本堂は、近世曹洞宗の伽藍建築の中心的な堂宇として宗門の伝統を遵守した建物であったようである。

(2)開山堂・位牌堂

開山堂は間口3間(6.27m)、奥行2間(3.94m)、切妻造、桟瓦葺、妻入とし、本堂背後の位牌堂の奥に続いている。開山堂の前面は中央に2本の丸柱を立て、柱間に虹梁を渡し、引違い戸4枚を入れ、柱上に大斗・肘木を載せる。内部は、床を位牌堂より高めて9畳の畳敷とし、格天井を張り、奥に仏壇を造り、仏壇上部では中央に2本の丸柱を立て、柱間に3スパンの虹梁を渡し、柱上に出組斗栱を置き、仏壇中央の背後に仏龕を凸字型に出している。

位牌堂は、間口3間(6.27m)、奥行7間(12.73m)、切妻造、桟瓦葺、妻入とする。前述のように、本堂の奥では中央に通路、両脇仏壇の背後に倉庫が造られ、その奥に前後2つの位牌堂を設けている。前方の位牌堂は間口3間、奥行2間、中央を幅2間半の通路(畳敷)とし、両脇に奥行半間の位牌壇を設け、後方の位牌堂は間口3間、奥行5間とし、中央を幅2間の通路(畳敷)とし、両脇に奥行半間強の位牌壇を設け、天井はいずれも棹縁天井としている。但し、前方の位牌堂は当初の通路部分に位牌壇を加えたものである。

(3)庫裡及び書院

 庫裡は桁行15間半(29.92m)、梁間8間(14.99m)、切妻造、桟瓦葺、平入、西面建ちである。柱は総面取角柱とする。間取りは南妻より4間半を土間部分、その北3間を板間部分、その北5間を座敷部分とし、土間部分では妻側1間半通りに西端から3畳、6畳、物置、通路、さらに東端に6畳を設けている。また、土間部分の西側では柱列に沿って幅1間の通路土間を北方に延ばし、西側正面の柱間を全面窓とするが、この柱列の南端より5間目を正面入口とし、入口の奥3間四方を玄間土間としている。このため、土間は玄間土間、勝手土間、通路土間に区分され、玄間土間の東隣が板間部分となり、間口4間、奥行3間の24畳分の板間が広がり、板間と勝手土間境の中央に大黒柱を立て、この板間と勝手土間の上部には大黒柱を中心とする大梁が井桁に組まれ、広大な空間が造られている。座敷部分は、西側1間を通路土間としたため、その東隣に間口4間、奥行5間の40畳分の大広間(板敷)、その東に間口2間、奥行5間の20畳の座敷を設け、この東側に幅1間の廊下を通し、廊下の南端には2間四方程の炊事場を東外に出し、この廊下は勝手土間から北方に延び中庭へと続いている。

中庭は庫裡と書院の間に位置し、両者の切妻屋根の取り合いに4間×2間半の空間を造り、屋根はない。中庭は南面に庫裡座敷の20畳と40畳分の大広間(板間)、東面に前述の幅1間の廊下、西面に10畳と3畳の座敷、北側には書院の14畳、6畳、21畳の座敷が接しており、中庭の南、北、西の3方に落縁が廻っている。なお、中庭の西側に設けられた10畳と3畳は庫裡と書院を繋いでおり、両室西側には庫裡と書院を繋ぐ廊下と通路土間が通り、鉤型に折れて本堂に結ばれている。

書院は桁行5間半(10.84m)、梁間11間(19.93m)、切妻造、桟瓦葺とし、庫裏北側の中庭を隔てて、庫裡と書院の屋根が大棟を揃えて一連に葺かれている。これに玄関屋根(切妻造、桟瓦附葺)が、これに直行するように低く葺かれる。柱は総面取り角柱とし、書院は大きく4つに区画され、北妻では北東15畳と北西15畳の2室が東西に並び、さらに南側中庭に面する南西21畳、南東部では東に14畳、その間に6畳と4畳半の2室を南北において都合6室構成とし、北東15畳と北西15畳の北側には幅1間の廊下を通し、北方の庭園を眺めることができる。さらに、北西15畳の西側では長5畳の小室、その西に12畳半の玄関の控の間、その西に幅1間弱、長さ2間半の板敷を通して本堂と接続し、これらの外には濡縁を出して北方の庭園が眺められる。北東15畳は東側には間口1間半の床の間と違棚を設けて上座敷とし、北西15畳が下座敷とされ、両室境には襖4枚を入れ、内法上に透し彫り板欄間を嵌めている。北東15畳と南東14畳の東側には半間幅の狭い廊下を通している。天井はいずれも棹縁天井とし、室境には襖を入れ、各室外面に障子、或いは板戸を入れている。玄関部分は本堂と庫裡、書院を繋ぐ役割を持ち、各所への入口となる。間取りは本堂の東妻前端柱間1間より東に延びて玄関の通路土間が通り、3間半進んで南方に鉤型に折れ、庫裡西側を一直線に延びる通路土間と一体化する。

(4)禅堂

 禅堂は間口5間(8.45m)、梁間4間(7.36m)、切妻造、桟瓦葺(現在トタン張)、平入、東面し、北隣の衆寮と並列して建っている。禅堂と衆寮の間は2間弱の通路を挟み、現在両者の間に一段低い屋根をかけている。禅堂の軒には「せがい造」の持出し梁が残されており、前身建物は桟瓦葺とされるが、当初は茅葺であったと考えられる。間取りは、前方に幅1間の通路土間を通し、この後方では現在中央に間口2間半、奥行3間の中央間、その両脇に間口1間、奥行3間の両脇間が設けられる。柱は総面取り角柱とし、堂正面では中央柱間に向拝を出し、両脇柱2間に中敷居、差鴨居を通して窓をいれるが、現在の切妻形の向拝は後補である。堂内は通路土間では両側面の前端柱間に引違い戸を入れて通路口とし、中央間では前面に大梁を渡し、床を高めて10畳敷(前方)、5畳分(後方)の板敷とし、両脇間では中央間境に大梁を渡して柱間を開放している(現在、大梁下に支柱を立てる)。棹縁天井を張る。当初は中央間が土間となり、両脇間が畳敷とされ、坐禅の禅牀とされていたことが一目して分かる。

(5)衆寮

 衆寮は間口5間(9.20m)、梁間4間(8.28m)、切妻造、桟瓦葺、平入、東面し、南隣の禅堂と並列して建っている。なお、衆寮と禅堂では前述のように両者の間に土間空間を造って一段低い切妻屋根を掛けられているが、同宗では禅堂・衆寮が一連に造られるものと独立して造られるものがあり、ここでは前者の可能性が考えられる。衆寮の軒には「せがい造」の持出し梁が残され、当初は茅葺であったとみられる。間取りは、前方に幅1間の通路土間を通し、後方に前後2列、横3室の6室を設け、前列には南から8畳、6畳、6畳の3室、後列には6畳、4畳半、4畳半の3室が並んでいる。柱は総面取角柱とし、堂前面では南端から柱間4間には中敷居、差鴨居を入れて窓とし、北端の柱間1間に引違い戸を入れる。堂内は、両妻の前端柱間では引違い戸を入れて通路土間の出入口とし、通路土間では室境に踏段を付け、前列3室には腰付障子を入れていた。その他の室境では柱間に敷居、差鴨居を通し、内法上を小壁とし、室境には引違い戸を入れていた。後列の各室西面では柱間に中敷居、差し鴨居を入れて窓を開き、前列北端の6畳には北面に床の間を設け、全室に棹縁天井を張っている。

(6)経蔵

 経蔵は間口3間(3.14m)、奥行3間(3.14m)、宝形造、桟瓦葺の小型の土蔵造の建物である。正面中央に2段の木階を付け、床を高めて板張とし、内部に縦板を張り、棹縁天井を張り、正面に両引き戸を入れ、外壁を白漆喰により塗り固めている。

引用・参考資料

杉野丞 2018年12月 「永住寺の伽藍建築の所見」(永住寺の登録文化財申請資料)

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新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

電話番号:0536-22-0673

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