設楽原から出土した鉄砲玉
平成8年1月。設楽原をまもる会が設楽原で鉄砲の玉探しを行いました。金属探知機も導入し、設楽原のあちこちを探していただいたが、結局発見することはできませんでした。その後、資料館の敷地から5個の鉄砲玉が相次いで発見されました。
◆鉄砲玉はどこに行ったのか
これまで、長篠城や設楽原から発見された玉はわずか38個です。設楽原では3000丁の火縄銃が使われたといわれています。たとえば1丁の火縄銃が10発の玉を撃っていれば、30000個の玉が設楽原に落ちていてもいいはずです。なぜ、たった38個なのでしょうか?
最大の理由は決戦のあった場所が設楽原という田畑に囲まれた地であったからです。火縄銃から放たれた玉が地中深く沈み込んでいると考えられます。
鉄砲玉は火縄銃を痛めないため、また、溶ける温度が低くに玉が作りやすいため、鉛で作られています。しかし戦国時代、鉛は大変貴重なものでした。鉛をどのように入手するか、天下を臨む大名にとっては重要な問題でした。
記録に残されていないことなので、推測ですが、設楽原で使われた鉄砲玉は、戦いの後、回収され、新しい鉄砲玉に作り直されたとも考えられています。今で言うリサイクルです。
◆鉄砲玉はどこから来たか
それほど貴重な鉛を戦国大名はどのように入手していたのでしょうか。市内細川にあるカナヤマは武田信玄の鉛の鉱山であるという言い伝えが残されています。
織田信長は設楽原の決戦で数万個から10万個を超える鉛玉を用意したと考えられています。
この謎を解く鍵が鉄砲玉自身に隠されています。
設楽原をまもる会と別府大学の共同研究で、長篠城や設楽原から出土した鉄砲玉について科学的な分析を行いました。鉛はその産地によって科学的な組成が異なります。その組成を分析し、統計を取っていくと、どこで産出したかが分かるのです。
長篠城や設楽原で発見された鉄砲玉はどこで産出したものだったでしょうか。
分析の結果、国内で産出したものもありましたが、中国や朝鮮、遠くは東南アジアのタイの鉱山で産出したものが含まれているということが分かりました。
信長は鉄砲玉を確保するため、海外から大量の鉛を集めていたのです。信長は積極的に南蛮貿易を行っていたといわれていますが、鉄砲玉を通して南蛮貿易の様子が科学的に裏付けられました。
設楽原歴史資料館蔵
『広報ほのか』平成24年1月号より転載
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