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其の二 天下人の武運長久を祈願した「冨賀寺(ふかじ)」

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更新日:2023年1月4日

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奥三河有数の古刹

新城のお寺といえば誰もが思い浮かべる鳳来寺。この鳳来寺と同じくらい古く由緒のあるお寺が新城にはたくさんあります。その一つが中宇利にある冨賀寺です。
お寺に残された伝承によると大宝元年(701年)に奈良の大仏造営に尽力した行基によって冨賀寺は創建されたとあります。その後、関白藤原忠平によって天慶6年(943年)には本堂をはじめ、三重の塔が建立されるなど整備がされ、この地域を代表する寺院となりました。
足利尊氏の従弟、真応(しんのう)上人が冨賀寺の住職をしていた南北朝時代、戦うごとに形勢不利になっていた尊氏は、冨賀寺本尊に開運祈願をしました。冨賀寺は全山を挙げて大勝の秘法などを行い、それから尊氏は勝利を重ね延元3年(1338年)ついに征夷大将軍になりました。これは冨賀寺本尊の霊験による開運と考え、以後冨賀寺を祈願寺として、寺領田地180町を寄進。併せて本堂・中堂・護摩堂・三重塔・その他諸堂宇・塔頭18坊を造営し、他に重要文化財「三千仏名宝塔図」などが寄進され、冨賀寺は最盛期を迎えます。

冨賀寺

冨賀寺

庭園

冨賀寺と徳川家

戦国時代、冨賀寺の近くにある宇利城を巡る戦いが発生します。宇利城は三河国と遠江国の境にあるお城で、両国にとって大変重要な拠点でもありました。家康の祖父である松平清康が三河平定の総仕上げとして宇利城を攻撃します。このとき、清康は冨賀寺の周辺にも布陣し、宇利城を攻め落とします。
ところが清康は家臣に切られ、若くして亡くなってしまいました。その息子広忠は松平家を残すために家康を今川家の人質として出しますが、途中で田原の戸田氏の裏切りにあって家康は織田家に送られてしまいました。
この頃の家康が描いたとされる絵が冨賀寺に残されています。どのような経緯でこの絵が描かれたか分かりませんが、寺伝では織田家の元にいた竹千代(家康の幼名)に冨賀寺が鏡を送り、武運長久を祈願したことのお礼として、自筆の絵が送られてきたとされています。
両親から遠く離れた家康にとって、辛く心細いときに武運長久の祈願をしてくれた冨賀寺は心に残る大切な寺だったのかもしれません。

地図

しんしろ家康紀行

鳳来寺山と冨賀寺を市公式YouTubeで紹介しています。

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新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

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ファクス:0536-22-0673

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