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其の九 いざ!設楽原「極楽寺址(ごくらくじあと)」

ページID:986026822

更新日:2023年4月16日

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武田勝頼が率いる1万5千人の軍勢に長篠城が取り囲まれたことを知った徳川家康はすぐに行動を起こしました。織田信長にその状況を伝え、織田軍の援軍を得ることに成功し、5月14日に岡崎城で合流をしました。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)との再会

武田軍に包囲された長篠城を脱出した鳥居強右衛門と鈴木金七郎は15日に岡崎に到着しました。長篠城から使者といえども、いきなり徳川家康に会うことができません。おそらく、長篠城主であった奥平信昌の父である定能(さだよし)が家康の近くに控えていたので、定能を介して家康に会うことができたのであろうと思われます。定能も自分の息子信昌の窮地(きゅうち)を救うことに必死だったことでしょう。
強右衛門や金七郎と面会した家康と信長は長篠城内の状況だけでなく、武田軍の様子も知ることができました。このときの情報は織田・徳川連合軍の勝利に結びつくような、とても重要なものでした。もうしばらく長篠城は武田軍の攻撃に耐えることができそうだと知った信長は、火縄銃を有効に使えるような天気、つまり梅雨明けを待つことができると考えました。

極楽寺址
極楽寺址(現平井神社)

設楽原への道のり

16日に岡崎を出発した家康と信長は牛久保に到着。翌17日には野田城に至ります。このとき、信長は元亀4年の武田信玄野田城攻めの様子を聞き、「よくそ、この城で武田信玄の攻撃を持ちこたえた」と野田城主菅沼定盈(さだみつ)を褒め称えたと伝えられています。
18日には設楽原(したらがはら)への布陣を始めます。野田城からどのようなコースを通って設楽原まで移動してきたのか分かっていません。織田軍3万人、徳川軍8千人という大勢の移動です。複数のコースが考えられます。江戸時代以前、雁峰山の麓(ふもと)を通る道がこの地域の中心的な道の一つでした。多く将兵は稲木から豊栄、杉山、片山、上平井のあたりを通り抜けていったと考えられます。
上平井には信長が最初に本陣と定めた極楽寺があります。家康も18日はこのあたりに陣を置いたものと考えられます。
このように岡崎を出発した本隊のほかにも、吉田城や浜松城から設楽原に向かおうとする徳川軍もいました。吉田城からの兵のなかには八名井から一鍬田、庭野を経由したものもあったであろうし、浜松城からの兵は宇利峠を越え、富岡を経由してきたものもあったと考えられます。
まさに、新城全体が戦いのなかに飲み込まれていきました。

地図
極楽寺址地図

お問い合わせ

新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

電話番号:0536-22-0673

ファクス:0536-22-0673

〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552番地

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