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其の六 奥平家の拠点「亀山城(かめやまじょう)」

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更新日:2023年1月16日

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武田信玄は野田城を落とした後、甲斐国へ帰る途中で亡くなってしまいました。その遺言として3年間、自分の死を隠すように伝えたため、どのような経緯で亡くなったかよく分からなくなってしまい、病気で亡くなったとも、野田城をめぐる攻防戦の中、鉄砲で撃たれたとも言われるようになりました。
このように信玄は自分の死を隠すようにしたにも関わらず、信玄が亡くなったというニュースは日本中を駆け巡りました。そのような中、奥三河でも大きな動きが出てきました。

武田家と奥平家

信玄の死は作手亀山城に拠点をおいていた奥平家にも衝撃を与えました。武田軍の中でも奥平家は高く評価されていました。一般的には奥平信昌の「信」の字は長篠城籠城の功績で織田信長の「信」を与えられたといわれていますが、近年の研究では信昌が元服するときに武田晴信(信玄)から「信」の字を与えられたのではないかとも言われるようになりました。戦国大名の名前の1字を与えられるということはとても名誉なことでした。それほど奥平家は高く評価されていたのです。

亀山城址(石碑)
亀山城址

信玄の後を継ぐ勝頼は信頼がおける武将なのかどうか全く分からない中、奥平家が武田家に対して不信感をもつ出来事が起きました。奥平家と隣家との領地争いの仲裁を武田家に依頼したところ、その対応をしてもらえませんでした。
こうしたことがきっかけとなり、奥平家は武田家と距離をおくようになりました。

奥平家、徳川家へ

ちょうどそんな頃に、徳川家康から徳川家に加わらないかという誘いがありました。家康からの書状には広大な領地と家康の長女亀姫との婚姻を約束するという一筆がありました。徳川家にとって、奥三河の有力な一族であった奥平家は、三河への侵略を計画していた武田軍に対抗するためには、そこまでしてでも取り込んでおく必要がありました。
奥平定能(貞能)と信昌親子は家臣を引き連れ、徳川家に従うこととしました。その後、家康によって信昌は長篠城の城主となるよう命ぜられました。
この2年度、武田軍は三河への侵攻を開始し、長篠・設楽原の戦いへとつながっていきます。

地図
亀山城地図

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