設楽原の決戦について語るとき、武田軍の騎馬隊、連合軍の馬防柵とともに、火縄銃を外すことはできません。そして、その火縄銃は織田信長が大量に用意したため、この戦いは三河国で行われたにも関わらず、信長の印象がとても強く残っています。
ところが、新城には徳川家康と火縄銃のつながりを示すものがあるということが近年明らかとなりました。
鉄砲玉から分かること
長篠城や設楽原から戦いで用いられた鉄砲玉がいくつか出土しています。発見された鉄砲玉を地元の郷土史家が中心となって、見つかった場所やその成分を調べるなど様々な分析を行ってきました。その結果、いろいろなことが分かってきました。
鉄砲玉の材料は鉛です。鉛は採掘された鉱山ごとにその成分が異なります。その成分を調べることによって、その鉛がどこで採掘されたか知ることができます。その結果、東南アジアのタイや中国などで採掘された鉛がかなり使われていることが判明し、信長が南蛮貿易を行っていたということを科学的に証明することもできました。
その一方で国内産の鉛もありましたが、日本のどこで採掘されたものか分かりませんでした。
市内には鉛山と呼ばれる山があり、地元では武田信玄との関わりが伝承されていました。この鉛山の鉛の分析を行ったところ、設楽原で発見された鉄砲玉の鉛と一致することが判明したのです。しかもそれらの玉の発見場所は徳川軍の陣地の正面でした。家康が火縄銃を用意しようとしたとき、その玉は信長に頼ることなく、自前でしっかりと用意しようとしていたことが分かってきました。
井代城跡
井代城と徳川家康
さらに家康がこの鉛山を意識していたということがわかる書状を遺しています。戦いの四年前、元亀二年(1571)に高野山に宛てた書状に井代城主菅沼定仙(すがぬまさだのり)の治める場所に鉛山があるということを記しています。
そして、この井代城から菅沼定政(すがぬまさだまさ)という家康の重臣が育ちます。定仙の姉が美濃国の明智家(土岐一族)に嫁ぎ、生まれた子が定政でした。美濃国の混乱により、母子は定仙を頼り、井代でしばらく過ごします。その後定政は家康に見出されて、重臣の一人として活躍します。やがて、美濃国の名族土岐氏を継ぐことを家康から命ぜられました。土岐家は江戸時代になると老中を務めるなど江戸幕府を支える大名となりました。
位置図
お問い合わせ
新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館
電話番号:0536-22-0673
ファクス:0536-22-0673
〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552番地