永正5年(1508)に菅沼元成によって築城された長篠城は時を経るとともに、その重要度を高めていき、そしてその主を替えていきました。
築城した菅沼元貞は駿河国から遠江国を支配する今川氏の家臣でした。永禄3年に桶狭間の戦いで氏親の子義元が敗死すると、東三河は次々と今川家の支配を離れ、松平家(徳川家)の支配となっていきます。長篠城主であった菅沼正貞も徳川家に仕え、家康の奥三河支配を助けることとなります。
ところが、元亀2年(1571)に武田軍によって攻撃を受け、なんとか持ちこたえますが、交渉の末、その軍門に降りました。しかしその2年後、武田信玄の死の知らせを受けた家康が長篠城を攻撃し、再び長篠城は徳川家の城となりました。
城主、奥平信昌
家康は、ちょうどこのころ徳川家に従うこととなった奥平家、その嫡男信昌に長篠城を任せることとしました。
長篠城は徳川家と武田家の領地の境にある非常に重要な城で、「三河へ侵攻してくる武田軍に間違いなく攻撃を受けるであろう。この城を落とされたら、東三河は武田軍のものとなってしまう。さて、徳川家の家臣となって日の浅い奥平家に任せていいものであろうか・・・」家康の中にはいろいろな想いがあったことでしょう。
長篠城を任された奥平信昌は家康の期待に応えていきます。もう武田家への臣従はあり得ないという決死の覚悟だったのかもしれません。
長篠城は宇連川と寒狭川という大河に面した断崖絶壁上に築かれた城です。この自然地形で守ることのできないところに、家康や信昌は大きな土塁と堀を築くなどして、防御性の高いお城に改修をしていきました。
長篠城 渡合
武田軍、長篠城へ
天正3年(1575)5月、武田勝頼が1万5千人の兵を率いて三河国へ侵攻してきました。勝頼は本陣を医王寺におき、5百人の兵が守る長篠城を取り囲みました。武田勝頼にとって東三河への侵攻は父信玄が成し遂げることができなかった大事業でした。長篠城を落とし、吉田城を目指し、やがては岡崎や浜松も支配下にしようとしていたのでしょう。
しかし、城主奥平信昌らの決死の覚悟と改修工事によって防御性が高まった長篠城は武田軍からの攻撃を見事に防いでいきます。
長篠城地図
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