徳川家康と新城のつながりは家康が産まれる前の天文11年(1542)の父広忠、母於大の方による鳳来寺参籠に始まりました。そして、天正18年(1590)に秀吉の命による家康の関東国替えによって、関東へ移動したことによって終わりました。この約50年間は徳川家康にとって、とても大切な50年でした。
家康の死
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きました。わずか2年後に将軍職を秀忠に譲り、大御所となり、天下ににらみを効かせていました。慶長19年(1614)から20年(1615)にかけて大坂の陣で豊臣家を滅ぼしました。ようやく家康が目指した戦のない時代が到来したのでしたが、その翌年、体調を崩した家康は4月17日に駿府城で亡くなりました。
ここから家康が少しずつ神として祀られるような動きがとられていきます。家康の遺言により、遺骸は久能山に葬られ、一周忌を済ませた後、日光に分霊されました。これは家康自身が神となって日本を守るという家康の遺志でした。
秀吉がなくなった後、「豊国大明神」という神になり、京都豊国神社のご祭神になりました。これと同じように家康が亡くなったあと、「東照大権現」という神号を授かりました。
鳳来山東照宮
その後、代々の将軍が日光東照宮へ社参しますが、中でも3代将軍徳川家光は祖父家康への強い尊敬の念がありました。正保元年(1644)、三河国への東照宮建立を計画し、家臣の松平正綱を鳳来寺へ派遣しました。慶安元年(1648)に日光東照宮へ参詣をした際に東照宮縁起絵巻の中に描かれた家康と鳳来寺との縁に改めて気づいたことから、鳳来寺山への東照宮造営が本決まりとなりました。
慶安4年(1651)4月に家光は亡くなりましたが、その想いは4大将軍徳川家綱が引き継ぎ、同年9月、鳳来山東照宮の創建に至りました。その際には江戸城内にあった紅葉山東照宮に鎮座していた「御宮殿」と「御神像」を遷祀したとも伝えられています。近年の調査により、御宮殿が本殿の大きさに比べ不釣り合いな程大きかったり、御神具の中には、慶安期以前に制作されたものが含まれていたりすることが判明し、これらの伝承に信憑性が出てきました。それほど鳳来山東照宮は幕府にとっても重要な東照宮であったといえるのです。
家康は亡くなってから35年後に新城へ神となって戻ってきたのでした。
東照宮
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