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其の八 酒井忠次の大作戦「鳶ヶ巣山(とびがすやま)」

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更新日:2023年3月16日

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天然の地形を利用した難攻不落の長篠城でしたが、大きな弱点がありました。それは宇連川を挟んだ対岸にある鳶ヶ巣山です。なぜ、ここが長篠城の弱点となるのか、鳶ヶ巣山に登ってみるとよく分かります。ここから長篠城内の様子が丸見えなのです。
武田軍は長篠城を取り囲んだとき、鳶ヶ巣山を中心に5ヵ所の砦(とりで)を築きました。それぞれ姥ヶ懷砦(うばがふところとりで)、君ヶ臥床砦(きみがふしどとりで)、鳶ヶ巣山砦、中山砦(なかやまとりで)、久間山砦(ひさまやまとりで)と呼ばれました。

徳川家康の長篠城攻め

元亀(げんこう)2年(1571)に武田信玄の軍門に降った長篠城でしたが、その2年後に徳川家康は長篠城を攻め落とします。これは「信玄死す」の噂を聞いた家康が長篠城を攻撃し、武田軍の動きを確認していたと考えられています。その結果、信長や家康は信玄の死を確信しました。
このとき、家康はどのようにして長篠城を攻めたか詳しい史料は残されていませんが、「長篠日記」には徳川軍は久間村に砦を築き、酒井忠次や菅沼定盈(さだみつ)らに守らせ、有海付近にも兵を置き、火矢を射掛けたと記してあります。家康も長篠城対岸の山々が長篠城の弱点であるということを分かっていたのでしょう。

長篠城の風景
鳶ヶ巣山から長篠城を眺める(赤枠内が長篠城)

鳶ヶ巣山の奇襲攻撃

長篠城を救うために設楽原に布陣した織田・徳川連合軍。それに対抗するために武田軍も設楽原に布陣を済ませていました。両軍合わせ5万を超える兵のにらみ合いです。鉄砲や弓矢の射程距離の外に布陣している武田軍が動かなくては、連合軍にも打つ手がありませんでした。家康の重臣であった酒井忠次は軍議の席で鳶ヶ巣山砦への奇襲攻撃を進言します。
この時にひとつの逸話が残されています。鳶ヶ巣山への奇襲攻撃を進言した酒井忠次に対して信長は「田舎侍の考えそうな作戦だ」と笑いながら、却下します。軍議の後、家康と忠次を呼び「さすが忠次だ。面白い作戦だ。どこに敵の間者が紛れ込んでいるか分からないから、あのように申した。すぐに実行せよ。」と命じました。
夜中に設楽原を出発した酒井忠次は3000から4000人の兵を率いて、豊川を渡り、吉川から舟着(ふなつけ)山、市川(いちかわ)の東側を回りながら鳶ヶ巣山の背後から砦を守る武田軍に対して奇襲攻撃を仕掛けました。
明け方に起こったこの攻撃に武田軍は持ちこたえることができず、砦から撤退していきます。このことによって、長篠城の包囲網は崩れ、武田軍から開放されました。さらに、酒井らは長篠城の籠城(ろうじょう)兵と合流し、設楽原にいる武田軍の背後を襲おうとします。
設楽原に布陣をしていた武田軍は挟み撃ちになってしまうことを恐れ、連合軍の築いた馬防柵に向けて攻撃を仕掛け始めました。織田信長や徳川家康は勝利を確信した瞬間かもしれません。

位置図
鳶ヶ巣山砦跡

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