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其の五 家康、苦渋の決断「旗頭山(はたがしらやま)」

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更新日:2022年12月16日

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三方原の戦いで武田軍に大敗したばかりの家康。野田城からの使者から戦いの様子を知らされましたが、全く妙案はありませんでした。
信頼する定盈を見捨てることはできませんし、野田城が武田方に奪われたら、次は東三河の中核である吉田城です。いや、吉田城を攻めずに一気に岡崎城を攻めてくるかもしれません。信長からの援軍が来ないという連絡も来ました。絶体絶命のピンチでした。
家康は家臣を集め、軍議を開きます。ここまで来たはいいが、どのようにすべきかと。重臣の一人である酒井忠次が「武田軍は我が軍の数倍であり、戦えば勝利は覚束ない。織田軍の援軍も見込めない。ひとまずは引き上げるべきである」と進言。
家康は苦渋の決断をせざるを得ませんでした。野田城を救うことはできないと・・・。

旗頭山からの風景
旗頭山から野田城を臨む

旗頭山から少しずつ遠ざかる金の扇の馬標。野田城からその様子を見ていた兵たちは力を落としつつも、城を枕に討ち死にする決意を固めたともいわれています。

戦いの集結へ

野田城を巡る攻防は日に日に激しさを増していきました。そんな中で信玄砲の伝説が生まれたりもしました。戦いをどのように終えるか。城内でも武田軍内でも軍議が開かれました。武田軍から矢文が城内に射込まれました。そこには「城主定盈が人質として城から出てこい。そうすれば、兵はみな助ける」と書いてありました。定盈は兵を助けるために人質となることを承諾し、わずかな家臣を連れて城から出てきました。後に定盈は徳川方にいた武田軍の人質と交換され、再び家康の家臣として活躍することとなりました。
家康は野田城を救援しようと、旗頭山にやってきただけでしたが、この動きは家臣を見捨てないという家康の心情によるものでした。結果的には野田城を救うことはできませんでしたが、こうした行動によって家臣を大切にする家康像が形作られていき、家康を中心とした強固な徳川家臣団が築かれていきました。

旗頭山位置図
旗頭山地図

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