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其の十三 新たな城ー平和な時代へー

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更新日:2023年8月16日

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長篠・設楽原の戦いは奥三河に平和をもたらしました。奥三河は松平(徳川)家、今川家、武田家、織田家によって、領地争いがずっと行われていましたが、戦いに勝利した徳川家康は三河国から武田家の勢力を追い払い、徳川領としてしっかり支配することに成功しました。

奥平信昌と亀姫

長篠城を守り抜いた奥平信昌。戦いの後、岐阜城へ招かれた信昌は、織田信長から刀を拝領、後に「長篠一文字」と名付けられました。また、家康からも「大般若長光」と呼ばれる刀を拝領、この刀は現在国宝に指定されています。信長や家康にとっても、長篠城を守り抜いた奥平信昌の功績は大きかったのです。
そして、家康は奥平家との約束通り、長女亀姫と信昌が夫婦となることを認めました。この婚姻はいわゆる政略結婚でしたが、二人は仲睦まじく、5人の子宝に恵まれました。このうち長男の家昌は奥平家を継ぎ、10万石の大名となり大分県の中津藩主として幕末を迎えます。4男の忠明は松平家を名乗り、埼玉県の忍藩主(10万石)として幕末まで存続します。
信昌が亡くなったあとも、亀姫は奥平家存続のために力を尽くしたといわれています。

新しい城を築くー新城築城

家康は信昌に新たな城を築くことを命じました。これにはいくつかの理由がありました。
愛娘を嫁がせる家康としては、その住まいを用意してやりたかったのかもしれません。
そして、武田家の脅威が去った今、長篠城の役割は低下しました。軍事的な拠点として長篠城は重要でしたが、政治経済の拠点としてはあまりにも手狭でした。また、奥三河には拠点となるような大きな町もありませんでした。このため、家康は城造りとまちづくりを行うことを考えました。
信昌はまだ若く経験がありませんでしたし、奥平家にまちづくりをするほどの財力もノウハウもありませんでした。このため、新城築城には家康が全面的に関わったものと考えています。
当時、郷ヶ原と呼ばれ、人家も少なかった場所(現在の新城小学校)に城を築くことにしました。火縄銃が戦いで使われるようになっていましたので、対岸の桜渕から火縄銃を実際に放ち、届かないことを確認したとも伝えられています。
新城城を中心とした新城の町がこの後少しずつ整備されていき、現在の新城の基礎が築かれました。

お問い合わせ

新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

電話番号:0536-22-0673

ファクス:0536-22-0673

〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552番地

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