山吉田の国道257号線沿いに道の駅「三河三石」があります。この「三石」という名前は徳川家康と山吉田との深いゆかりを示しています。
満光寺の由緒
満光寺は平安時代の貞観2年(860)に円仁によって創建されたと伝えられています。円仁は慈覚大師とも呼ばれ、平泉中尊寺を創建したり、浅草の浅草寺を再興したりした名僧でした。地域の名刹として多くの人から篤い信仰を受けていました。
戦国時代には山吉田一帯を治めていた鈴木重勝は満光寺を深く信仰し、玄賀和尚を迎え、現在地に移転するとともに、少しずつ建物の整備を行って行きました。
三石のいわれ
最初にお話した「三石」とは満光寺が幕府から毎年拝領するお米の量です。幕府から毎年これほどのお米を拝領することは大変名誉なことでした。これを拝領するいきさつが寺伝には次のように記されています。
「御当家(将軍家)に附て功有る開山也」
これは満光寺が将軍家にとって大きな功績があり、そのため毎年三石を与えるというものでした。さてこの功績とは何でしょう。
まずは、歴史的に見ていきましょう。徳川家康は三河を平定した後、遠江への進出を試みました。そのため野田城主菅沼定盈を通じて満光寺住職の玄賀和尚に今川方の井伊谷三人衆を徳川方へ引き込むように依頼しました。和尚は鈴木重勝の子重時らを説き伏せ、三人衆の協力を得ることに成功。家康の遠江進出に大きな功績を残しました。
家康を救った鶏
もう一つの功績は地域に残された有名な伝説です。
武田信玄との戦いに大敗した家康は命からがら逃げてきました。家康一行は疲れた体を休めるために満光寺で一泊することとし、「一番鶏が鳴いたら起こしてくれ」と住職に頼み、床につきました。
翌日、その日に限ってまだ暗い内に一番鶏が鳴きました。住職は不思議に思いながらも家康一行を起こしました。家康は礼を述べながら、満光寺を後にしていきました。その直後、寺は武田軍に取り囲まれましたが、すでに家康一行は遠くへ逃げており、命拾いをしました。
どちらの話も満光寺が果たした大きな功績で、家康にとって忘れられないお寺の一つとなりました。
満光寺地図
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