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戦国の息吹を感じる

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日本各地に有力な戦国大名が郡雄割拠する時代、奥三河には、山家三方衆と呼ばれる土豪がいました。東に今川・武田、西に織田・松平などの有力大名に囲まれたこの地では、自家の存続のため、めまぐるしく従属関係を変えなければならず、時には親子が敵味方に分かれて戦うこともありました。天正3年(1575年)、奥平貞昌が徳川氏の家臣として長篠城に入ったことから、歴史は動きだします。

長篠城をめぐって繰り広げられた織田・徳川連合軍の鉄砲と馬防柵、武田の騎馬隊の戦いは、斬新な戦術を追求した信長と、伝統的な戦術に秀でた勝頼との激突であり、新旧の戦術がこの地で対決しました。
この戦いの勝利後、奥平家は新城の地に移り城を築き、新城城主として新城の町の礎を築きました。

しんしろ戦国絵巻三部作

鳳来寺山

鳳来寺山は標高695mの山で、鏡岩(屏風岩)に代表される岩肌を露出した美しい山の姿は、古くから山そのものが信仰の対象となり、やがて修験者の聖地、真言・天台の密教の道場として栄えてきました。
鳳来寺山の主要な山体の岩は、ガラス質でその透明がかった断面が松やにのように見えることから、松脂岩とよばれています。これだけまとまった松脂岩の分布は、日本でも鳳来寺山だけとされています。

鳳来寺山東照宮

慶安元年4月、徳川家光が日光の東照宮に参詣した時、東照宮縁起に「家康の父君広忠公が、良い世継ぎを得たいと思われ、北の方(於大の方)とともに鳳来寺に参篭し、祈願したところ、その効あって家康が授かった」と記されてあるのに感銘をうたれ、鳳来山東照宮の建立を発願され、慶安4年4代将軍家綱の時代に完成しました。
建立後は、神仏一体の制のもとに祭事その他一切を鳳来寺が行ってきましたが、明治5年の神仏分離令により独立し、現在日光・久能山とともに、日本三東照宮と称されています。

城跡を巡る


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