長篠城をめぐる戦い
天正三年(1575年)五月一日、武田勝頼は長篠城を手に入れようとやってきた。勝頼は15,000人の大軍で長篠城を取り囲んだ。長篠城主奥平貞昌を始め500人の城兵はよく戦って防いだ。しかし、少人数で城を守るのは難しく、一四日、貞昌は鳥居強右衛門と鈴木金七郎を岡崎へ走らせた。家康は長篠城を救うため、織田信長の助けを借りて長篠城を目指すため、軍議を開いていた。岡崎城でこの様子を見た強右衛門らは家康と信長に長篠城の状況を伝えると長篠へ戻っていった。長篠城に入ろうとした強右衛門は武田軍に捕まった。城内に向かって「援軍は来ないと言えば命は助けてやる」と言われた強右衛門はその約束を破り「援軍は近くまで来ている」と叫び、磔になり殺された。
強右衛門の決死の叫びが長篠城を救った。
両軍の布陣
38,00人の織田・徳川連合軍は、一六日に牛久保城、一七日に野田城と進み、一八日に設楽原に到着した。信長は極楽寺山、家康は弾正山に本陣をおいた。そして、設楽原を流れる連吾川沿いに馬防柵を築き、武田軍の攻撃に備えた。一方、武田軍は軍議で出撃すべきかどうか意見が分かれたが、設楽原へ陣を移し、連合軍と向かい合うことに決した。そして連吾川の東側台地に陣地をおいた。
激闘10時間
設楽原の戦いが行われた五月二一日は、今の暦では七月九日にあたる。ちょうど梅雨明けのころで、田んぼには稲の苗も植えられていた。前夜からひそかに鳶ケ巣山を目指した酒井忠次は夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかった。その声が遠くに聞こえる設楽原では、武田軍が攻撃を仕掛けた。しかし、馬防柵を前に思わぬ苦戦となった。柵の手前には連吾川があり、川の両側には水田が続いている。それらを越えて、柵に近づくと鉄炮が放たれる。武田軍が突撃を繰り返すたびに死傷者の数が増えた。土屋昌次をはじめ、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、真田兄弟等が連合軍の堅い守りを突き崩し、必死に戦った。しかし、正午を過ぎるころになると、将兵の討死が次々と伝えられ、武田軍の敗色は明らかとなってきた。柵より討って出る連合軍に押され、じりじりと後退を始めた。馬場信房は、勝頼を落ちのびさせようと、追手をくい止めたが、寒狭川付近でついに力尽きた。勝頼はわずかな兵に守られて退却していった。武田軍10,000人、連合軍5,000人が、たった10時間ほどの戦いで命を落としたと伝えられる。
戦後の村人
設楽原に住む村人たちは、戦いが行われている間、雁峰山の中腹に避難していた。戦いが終わり設楽原へと戻ってきた村人は両軍の兵や馬を手厚く葬り、その霊をなぐさめる祈りをささげた。
その場所が竹広の信玄塚で、毎年八月一五日の夜に行われる「火おんどり」は400年以上も絶えることなくも続いている。
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