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鳥居強右衛門

ページID:376786744

更新日:2023年5月31日

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鳥居強右衛門(とりいすねえもん 以下、強右衛門と略す)は、天文9年(1540年)三河国市田村(現在の愛知県豊川市市田町)の農家に生まれ、長篠城城主・奥平信昌に仕えた足軽。天正3年(1575年)長篠・設楽原の戦いの前半戦と位置づけられる、長篠城の攻防戦において、武田勝頼率いる武田軍の猛攻に落城寸前の長篠城のピンチを救うべく、岡崎城にいる織田信長・徳川家康に助けを求めて川を潜り、武田軍の包囲網を潜り抜けた。
たったの3日間で長篠城と岡崎城を往復した強右衛門は、「長篠城に援軍は来る」という情報を持って長篠城へと帰城を試みるが、武田軍に捕らえられてしまう。
決死の思いで援軍が来ることを叫び、城内で待つ仲間を鼓舞するが、それを最期に磔刑に処された。天正3年(1575年)享年36歳。

鳥居強右衛門の詳細説明

皆さんは、鳥居強右衛門という人物をご存知でしょうか。彼の名前を検索するとまず第一にふんどし姿で磔刑に処されているという壮絶な姿で描かれた人物が出てくるはずです。インパクトのある人物画で印象的な強右衛門ですが、「どうしてこの姿で描かれたのか」という観点で強右衛門を深掘りしていきましょう。

強右衛門の生い立ち

強右衛門は、天文9年(1540)三河国市田村(現在の愛知県豊川市市田町)の農家に生まれました。
元々、強右衛門は奥平信昌の父、貞能に仕えていましたが、信昌が長篠城の城主になった時、それに従い長篠城に移りました。
足軽・鳥居強右衛門に命じられた重要任務
天正3年(1575)長篠・設楽原の戦いの前半戦と位置づけられるのが長篠城の攻防戦です。
武田勝頼率いる軍勢15,000に対抗するのは奥平貞昌(信昌)率いる城兵わずか500。
奥平軍の30倍もの兵力を持って攻め入る武田軍の猛攻から10日以上も経過し、窮地に立たされていた奥平軍は、もはや織田信長・徳川家康の援助を得られない限り、落城は時間の問題という状況に追い詰められていました。
「援軍は本当に来るのだろうか。」城内ではそんな不安が広がっている中、信昌はその見込みを確かめるため・城の危急を伝えるために岡崎城へ使者を送ることを決断します。この重大任務を引き受けた者こそが、奥平軍の足軽・鳥居強右衛門でした。

どうする強右衛門

5月14日、信昌の命を受けた強右衛門は城を抜けだし、豊川(寒狭川)を下り、岡崎へと強行すると、翌15日には岡崎城に到着します。
そして、城内にいた奥平信昌の父・貞能を介して、信長と家康に、長篠城の状況を伝えると、両将の連合軍が出陣することを約束された強右衛門は、これを長篠城で待つ仲間へと伝えるべく、すぐさま引き返します。しかしその翌16日のこと、長篠城内へ入ろうと試みますが、武田軍の兵に捕らえられてしまいます。

仲間を救いたい、決死の叫び

武田軍は、捕らえた強右衛門を利用して戦局を有利に展開しようと考えました。強右衛門に「援軍は来ないと言え。そうすれば命を助け、知行(褒美として領地を与えること)を与えよう」と唆しますが、強右衛門はそれに屈することはありませんでした。
「援軍はすぐそこまで来ている。城を堅固に持て、もう少しの辛抱で城中は運を開くだろう!」と仲間の待つ長篠城に向かって大声で叫び、勝頼の意に背いたのです。そうして、味方の奮起を促した強右衛門は使者としての役目を全うし、長篠城から豊川を隔てた対岸側、篠場野に連行された後に磔にかけられ、その最期を遂げたのでした。

あっぱれ!鳥居強右衛門勝商

強右衛門は、尾張国の織田氏・甲斐国の武田氏のような、いわゆる戦国大名と呼ばれるような身分ではありませんでしたが、諱(死後、その人を尊敬しておくる称号)が付けられ、鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)として称されています。
また、落合左平次背旗に描かれた強右衛門の磔図は、徳川方の家臣、落合左平次道久が強右衛門の最期に感動し、自分の背旗にしたことがあります。

英雄・鳥居強右衛門の軌跡を辿る

強右衛門の仲間を救うための勇気ある行動は、人々に感動を与えました。強右衛門を讃え、その人生は詩となり歌となり、墓碑・顕彰碑の建立、慰霊法要の祭典の執行等々、後世に渡って強右衛門の功績は語り継がれています。

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新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

電話番号:0536-22-0673

ファクス:0536-22-0673

〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552番地

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