私たちのまち・新城が生み、地域や全国に誇る活躍をした人や演劇などの題材として取り上げられた人物を紹介します。
人物名 |
フリガナ |
生涯 |
業績 |
関係地区 |
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1 |
青木孝義 |
アオキ タカヨシ |
明治30年(1897年)から昭和37(1962年) |
日本大学法律学科卒業後、ドイツに留学し経済学を学ぶ。 昭和21年に衆議院議員に初当選し、昭和24年には国務大臣・経済安定本部総務長官・物価庁長官を務めた。 一方、郷土の教育復興や豊川用水事業に尽力し、昭和37年に新城市初の名誉市民となる。 |
矢部 |
2 |
阿部泰蔵 |
アベ タイゾウ |
嘉永2年(1849年)から大正13年(1924年) |
明治の時代に働き手を失った人々の生活を救済する方法の必要性を痛感し、日本最初の生命保険会社となった明治生命保険会社を設立した。 開業後は、日本各地に巡回し、保険の概念を広める役割も果たした業績は称えられ、オハイオ州立大学校内にある保険殿堂には肖像画が飾られている。 |
下吉田 |
3 |
生田廣之 |
イクタ ヒロユキ |
大正7年(1918年)から昭和20年(1945年) |
慶応大学に入った廣之は、体操選手として日本代表に選出され、ハンガリーやチェコスロバキアで開催された世界大会で活躍し、昭和15年の東京オリンピックの日本代表候補にも選ばれた。 しかし、昭和12年に起こった日中戦争によって東京オリンピックは中止となり、卒業後に召集され日中戦争のシ江作戦で戦死し、はかなくもオリンピックで活躍するという夢は叶えられなかった。 |
能登瀬 |
4 |
池田寛親 |
イケダ ヒロチカ |
生年不詳から天保4年(1833年) |
漂流物語「船長日記」の作者で、新城・菅沼氏の家老とされる。 船頭・重吉が江戸から尾張へ船で帰る途中に暴風雨に遭い、17ヶ月の漂流の末、メキシコ沖でイギリス船に救助され、北アメリカ、カムチャッカ、北海道等を経由して帰郷した文化10年(1813年)から文化14年にわたる漂流の体験談を「絵図を交えて具体的に記述」し、原本は市の文化財となっている。 |
裏野 |
5 |
岩瀬忠震 |
イワセ タダナリ |
文政元年(1818年)から文久元年(1861年) |
川路城城主設楽氏の子孫として生まれ、その後、岩瀬氏の養子となる。 幕府の外交官として、41歳の安政5年(1858年)に関与した「日米修好通商条約」は、開国の第一歩となったことで知られている。 海外の事情に通じており、イギリス、アメリカなどの軍事的脅威などに交戦することなく、日本を守ろうとした姿勢は高く評価され、横浜市は「横浜開港の恩人」として称えている。 |
東郷 |
6 |
大阪圭吉 |
オオサカ ケイキチ |
明治45年(1912年)から昭和20年(1945年) |
日本大学商学部を卒業後、新城町役場に勤める。その傍ら、小説を執筆し、昭和7年に雑誌の佳作を受賞し、作家デビューを果たす。昭和13年に役場を退職し、本格的な作家生活をスタートさせる。 ミステリー作家として、推理小説界の巨匠・江戸川乱歩にあやかり、「江戸」に対する「大阪」とペンネームを命名した。 |
町並 |
7 |
太田白雪 |
オオタ ハクセツ |
寛文元年(1661年)から享保20年(1735年) |
生家の屋号は升屋といい、酒造、米穀、茶などを扱う商家であり、また庄屋も勤める当地の名家で、実業家として活躍した一方で、俳諧を好み、松尾芭蕉の来訪時に鳳来寺へ案内をするなど、当地方の俳壇の中心的役割を担った。 また、郷土研究にも励み「新城聞書」など、地域の歴史書を著している。 |
町並 |
8 |
奥平貞昌 |
オクダイラ サダマサ |
弘治元年(1555年)から慶長20年(1615年) |
天正3年(1575年)「長篠の戦い」の折、若干21歳で長篠城の城主として、武田勝頼軍と籠城戦を行い、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守した。 この功績により、翌年貞昌は、信長から一字をもらい「信昌」と改名し、郷ケ原に新城城を築き、家康の長女・亀姫と婚姻した。新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来になったとも言われている。 |
作手清岳 長篠 西入船 |
9 |
織田源松 |
オダ ゲンショウ |
万延元年(1860年)から昭和12年(1937年) |
明治中期に『八名窯』と呼ばれる良質の黒炭を産出する製炭技術を開発した一人である。 山吉田で生まれた製炭技術は、全国から注目され、技術者の集団「教師組合」を組織して、講師として全国各地へ製炭指導に赴くほどでした。 現在、全国各地で知られている「大竹、吉田、新信濃、島根など」の窯は、この八名窯を基礎としたもので、日本の製炭業界に大きな功績を残し現代まで連綿と受け継がれている。 |
山吉田 |
10 |
空道和尚 |
クウドウ オショウ |
正徳年間(1711年から1715年)から安永元年(1772年) |
農家の子として生まれ、地元領主の旗本・設楽家に仕えるも享保16年に仏門の世界に入った。 大宮・般若寺の住職として勤める傍ら、絵画や彫刻の造形に深く、数多くの作品を残している。勝楽寺の魚板、石座神社の神馬、閻魔大王像や賓頭盧尊者像など多数の仏像彫刻を作成し、その写実的な作品は市の文化財として今も残されている。 |
竹広 |
11 |
渋谷金王丸 |
シブヤ コンノウマル |
不詳(平安末期) |
主君・源義朝を騙し討ちした長田氏を追ってきた金王丸は、逃げ込んだ鳳来寺から出るのを待ったが、仇討ちを果たすことなくこの地で病死したという逸話が伝えられ、金王丸を祀ったとされる祠が残されている。 彼の活躍は、鎌倉時代に成立した「平治物語」や歌舞伎、錦絵などの題材に取り上げられている。 東京都・渋谷区の地名の由来としても知られている。 |
玖老勢 |
12 |
浄瑠璃姫 |
ジョウルリ ヒメ |
不詳(平安末期) |
浄瑠璃姫は、岡崎に住む兼高長者の娘とされる。源義経に恋し、「鳳来寺の千寿ヶ峰」の近くの笹谷で暮らし再会を待ち望んでいたが、義経はその約束を果たすことなく、この付近を素通りしてしまった。 再会の約束が果たされず、、一途に待ち焦がれていたこのはかない義経との恋を嘆き悲しんだすえ、姫は自害してしまう。 これを哀れんだ村人たちが建てた祠は、今も近くに残されている。 |
門谷 |
13 |
菅沼定長 |
スガヌマ サダナガ |
弘化3年(1846年)から明治9年(1876年) |
新城領主の11代目にあたる。将来の指導者の育成を目的として、幕府の命令で慶応3年(1867年)、大名・旗本の子孫から20名の将来有望な人材のひとりとして、フランスへ留学した。しかし、明治維新の変革により、わずか9カ月で帰国している。 帰国後は政府官僚を勤めるも明治6年に退官し、東京銀座で貿易商を営んだ。 |
新城 |
14 |
鈴木麟三 |
スズキ リンゾウ |
嘉永5年(1852年)から明治37年(1904年) |
明治に活躍した政治家で元々は医学を志していた。父親の急死によって帰郷した麟三は、28歳で能登瀬の村長、県会議員を経て、明治25年には国会議員に初当選している。 県会議員の折には、豊橋、大野、川合を経由して長野県へ通じる「別所街道」の開設に尽力し、また「県政の西高東低の政策状況を嘆き、尾張と三河の一体性を強調し」分県論を退けた業績は、三河地域の発展に大きな功績を残している。 |
能登瀬 |
15 |
橘薫 |
タチバナ カオル |
明治45年(1912年)から昭和38年(1963年) |
宝塚歌劇団のスタイルを創出したとされる「モン・パリ」公演で歌と踊りに活躍し、日本中に「宝塚」を知らしめる原動力の一人として注目を集めた。 また、三浦時子とコンビを組み「エッチンとタッチン」の愛称で親しまれた活動は、「キャンディーズやザ・ピーナッツ」といった歌謡界のコンビ歌手の先駆けとなったとも言われている。 引退後はシャンソン歌手として舞台に立ちながら、「三輪明宏」氏の指導など指導者としても活躍した。 |
名越 |
16 |
鳥居喜一 |
トリイ キイチ |
明治45年(1912年)から平成6年(1994年) |
歯科医としての傍ら、植物の研究家として知られている。採集した植物は2,708種、約50,000点以上にも及び、その一部は東京大学や京都大学、国立科学博物館、地元の鳳来寺山自然科学博物館などに寄贈されている。 採取した資料のうち、ミカワバイケイソウは、昭和13年(1938年)頃に喜一が最初に発見したとされ、市の天然記念物に指定されている。 東三河地域で60種以上の新分布の発見し、東三河の植物分布を調査した功績は大きい。 |
西新町 |
17 |
鳥居強右衛門 |
トリイ スネエモン |
天文9年(1540年)から天正3年(1575年) |
天正3年の「長篠の戦い」、武田軍の猛攻に籠城戦で対抗した長篠城から援軍要請のために自ら名乗りを挙げて城を出た強右衛門は、城に戻る際に捕まり、「嘘の報告」をするよう求められたが、「援軍が来る」という真実を叫んだため、磔殺に処された。 城から脱出した勇気と敵に捕まりながら真実を伝えた忠義は、敵方の落合左平治の心に感動を与え、背旗の印に用いられた。 |
長篠 有海 作手鴨ヶ谷 |
18 |
早川孝太郎 |
ハヤカワ コウタロウ |
明治22年(1889年)から昭和31年(1956年) |
画家を志して上京するが、大正4年(1915年)に民間伝承の研究雑誌『郷土研究』に「三州長篠より」を投函し、柳田国男に見出される。 この出会いによって、民俗学の調査・研究に努め、民俗学者としての道を歩んだ。 昭和5年(1930年)に著した「花祭」の業績は、民俗学上高い評価を受け、氏の代表作となっている。 |
横川 |
19 |
半田春平 |
ハンダ シュンペイ |
天保3年(1832年)から明治6年(1874年) |
明治3年に起こった設楽郡・八名郡・宝飯郡の70以上の村々に及ぶ大規模な農民一揆「蓑着(みのぎ)騒動」の首謀者のひとりとされる。 この騒動は、台風被害による年貢の減免が聞き入れられなかった怒りを露わにした数千人の百姓が暴動を起こし、軍隊の出動によって鎮圧が行われた騒ぎとなった。首謀者は囚われ、春平は信州で獄死したという。 |
杉山 |
20 |
牧野文斎 |
マキノ ブンサイ |
明治元年(1868年)から昭和8年(1933年) |
医師、総合病院の院長として病院経営のほかに、電気、紡績、劇場などの事業を展開した人物である。その中で、地域の若者へ学習の場を提供する目的で建設した図書館は、特に地域の発展に大きな役割を果たしている。 また、郷土史などの資料収集とともに「長篠の戦い」に関する郷土研究にも尽力した。 |
八束穂 |
21 |
松御前 |
マツ ゴゼンマツ |
康平2年(1059年)から大治5年(1130年) |
熱田神宮大宮司の尾張員職の娘で源頼朝の曾祖母にあたる人物とされる。この地域を治めた夫の藤原季兼とともに新城市稲木で過ごし、葬られた塚が城ヶ峰の山頂に所在している。 また、昭和5年(1930年)に豊島・千郷西保育園付近に「松御前の碑」と「歌碑」が建立されている。 |
稲木 臼子 豊島 |
22 |
丸山彭 |
マルヤマ ホウ |
明治36年(1903年)から昭和63年(1988年) |
長篠城の跡地を通る鉄道建設の計画が持ち上がると、その保存運動に共鳴し、情熱を灯した人物である。遺跡保存の大切さを訴えるため新聞に投書した結果、全文がそのまま掲載され、その反響は大きく、城跡は最小限の破壊に留められることとなった。 その後、長篠城址史跡保存館の設立し関わり、初代館長として「長篠の戦い」の調査研究、資料収集に尽力した。 |
長篠 |
23 |
望月喜平治 |
モチヅキ キヘイジ |
文政5年(1822年)から明治26年(1893年) |
豊川流域屈指の豪商として知られた長篠の久保屋に生まれる。 明治時代に入り、対岸の別所街道や伊那街道で道路整備が進められたが、長篠の道の改修工事は行われなかった。 そこで、商売の行く末を案じた彼は、巨額の私費を投じて、宇連川右岸の長篠から川合に至る車の通れる道を整備することを決意した。この道を「望月街道」と呼び、氏の偉業を称えている。 |
長篠 |
24 |
森の石松 |
モリ ノ イシマツ |
生年不詳から万延元年(1860年) |
富岡生まれとされる。遠州・森町へ父とともに引っ越すも孤児となり、やがて清水の次郎長の子分として、任侠(やくざ)社会に生き、最後は騙し討ちに遭い、自害した。 人柄は、酒飲みの荒くれ者だが義理人情に厚く、どこか間の抜けた愛すべきキャラクターとして、生き様は講談や浪花節(浪曲)、演劇の題材に取り上げられるなど有名である。 |
富岡 |
市内にはまだまだ多くの郷土や日本の発展に寄与した人や各種題材となった歴史上の人物が大勢います。
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