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井伊谷・井伊家と新城地域

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更新日:2019年12月25日

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井伊家を支えた井伊谷三人衆

 井伊谷三人衆(いいのや さんにん しゅう)とは、遠江国・井伊谷の国人領主の井伊氏に仕えた愛知県新城市に縁のある鈴木氏、近藤氏、菅沼氏の3氏を指し、特に鈴木重時(すずきしげとき)、近藤康用(こんどうやすもち)、菅沼忠久(すがぬまただひさ)の武名が高い。

歴史メモ

 鈴木重時は山吉田・鈴木家の2代で、初代の鈴木重勝(すずきしげかつ)が三河国・吉田郷に土着した享禄4年(1531年)に今川義元の家臣であった井伊谷の井伊直盛(いいなおもり)に仕えたのがその始まりとされる。

 近藤康用は宇利・近藤家の3代にあたり、初代は近藤満用(こんどうみつもち)である。満用は享禄2年(1529)に松平清康(家康の祖父)が起こした今川方の熊谷実長(くまがいさねなが)が守る宇利城攻めに参加した。2代 忠用(ただもち)の時、清康が天文4年(1535)に謀殺(ぼうさつ)されると、永禄4年(1561)に山吉田・鈴木重勝によって今川方に帰属を変えることとなった。その結果、3代康用(やすもち)は宇利城を賜り城主となったと考えられる。

 菅沼忠久は長篠・菅沼支流の3代であり、2代 元景(もとかげ)の時に長篠・菅沼から井伊谷・井伊直親の家臣になったとされる。井伊直親は永禄3年(1560)に家督を継ぎ、永禄5年に謀殺されていることから、井伊家に帰属した時期はこの期間の出来事と思われる。

 これらのことから井伊谷三人衆が誕生した時期は永禄4年~5年の頃と考えられる。井伊家22代当主の井伊直盛が永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで亡くなると、従弟の井伊直親が23代当主となったが、直親の母親が鈴木重勝の娘であったことから、井伊家を支えるために山吉田・鈴木家が奔走した様子が目に浮かんでくる。

参考文献

丸山彭 編 1981 井伊谷三人衆(長篠戦史 第3分冊) 愛知県鳳来町立長篠城址史跡保存館

鳳来寺と井伊直政

鳳来寺山画像

 永禄11年(1568年)、武田信玄や徳川家康が今川氏領国の駿河と遠江に侵攻を開始した。

 その戦乱に乗じて、今川氏真に命を狙われていた7歳の井伊直政(幼名 虎松)は三河国・鳳来寺に逃れたとされる 【武徳編年集、改正後風土記】。

天正3年(1575年)に直政が徳川家康に出任するまでの7年間、鳳来寺で過ごしたと伝えられている。

 17世紀末~18世紀初頭に成立した「鳳来寺由来」によると、元亀3年(1572年)の三方原の戦いに鳳来寺の僧侶が甲冑を来て参戦したという。

 また、三方原の戦いの翌年、武田信玄は新城市の野田城を攻めた時の傷を療養するために鳳来寺に立ち寄ったとも伝えられ、天正元年に武田勝頼は武田から徳川方に寝返った奥平家の人質を鳳来寺の門前町であやめていること、天正2年には武田勝頼が鳳来寺に証文を出していることなど、井伊直政がここで匿われていた時期の鳳来寺は武田氏との関係が深い。

 この鳳来寺で幼少期を過ごした直政にとって、お寺で文武の教養を身に着けながら武田家との関係を持つことができたために、武田家滅亡後、家康からその旧臣が与えられて誕生した「井伊の赤備え」とともに、めざましい戦功を立てていくことができたのではないか、と想いを馳せることもできるのではないでしょうか。

(上画像:右より鳳来寺本堂、鐘楼、鏡岩)

歴史メモ

 永禄5年(1562年)、遠江国・井伊谷の国人領主で23代領主の井伊直親は今川氏真の被官 小野道好(おのみちよし)の讒言(ざんげん)によって「徳川家康との内通」の疑いがかけられた。直親はこの弁明のために向かった駿府への道中で、今川家の重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)の襲撃を受けて討ち死にした。

 この時、直親の子 虎松も謀殺されるところであったが、縁戚であった新野親矩(にいのちかのり)の尽力でその難を逃れた。その後、虎松は親矩やその妻に養育されていたが、再び氏真に命が狙われていることが分かると、永禄11年に親矩の叔父で浄土宗の僧侶であった深珍を頼りに三河国・鳳来寺に逃れてきたという。

 永禄11年12月13日、遠江に侵攻を開始した徳川家康は井伊谷城を攻撃したが、この前日、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の井伊谷三人衆に所領安堵(しょりょうあんど)の起請文(きしょうもん)【近藤縫殿助系譜文書】を与えており、この三人衆が家康の先鋒隊として進んだことから井伊谷城の城兵は一戦も交えず城を明け渡したとされる。また、この時の鳳来寺は徳川方で奥三河の国人領主の山家三方衆(田峯・菅沼、長篠・菅沼、作手・奥平)が氏寺のように庇護していたと言われ、井伊谷三人衆の一人であった菅沼忠久が山家三方衆の長篠・菅沼の支流でもあったことから、虎松が鳳来寺に匿われたことは反今川勢力のこれら縁故を頼ったものとも推察される。

参考文献

丸山彭 編 1981 井伊谷三人衆(長篠戦史 第3分冊) 愛知県鳳来町立長篠城址史跡保存館

満光寺と鈴木重勝

満光寺本堂

 享禄4年(1531年)、三河国・宇利庄の吉田郷に土着した鈴木重勝は白倉城を築城し、今川義元の家臣 井伊直盛に仕えたとされる。翌、天文元年(1532年)に重勝は、三河国・下吉田村の五反田字岡の地にあった青龍山満光寺を下吉田村の田中の地に堂宇を移して、玄賀和尚を迎えて再興した。

 満光寺本堂裏手に所在する開基堂には4基の宝篋印塔があり、重勝とその妻の墓碑が祀られている。

(画像:満光寺本堂)

歴史メモ

 満光寺は貞観2年(860年)に天台宗の僧 圓仁よって創建され、本尊は薬師如来であったという。鈴木重時が現在地に堂宇を移して再興するまでの事績は不詳である。天文元年の堂宇再建や玄賀和尚の招聘によって、この時、宗派を曹洞宗とし本尊は十一面観音に改められたと考えられている。

 満光寺には井伊谷の龍潭寺にある国指定の名勝庭園に勝るとも劣らない庭園があり、昭和48年(1973年)に愛知県の名勝庭園として文化財指定されている。

 作庭者は大死禅柱和尚で、その作庭時期は位牌堂の地形を均すなどの伽藍の大整備が行われた宝永4年(1707年)頃と推測されている。庭園は書院庭園と庫裏座敷庭園の2庭からなるが、1庭のように連続しているためその境界は判然としない。

 その中心となる書院庭園は鶴亀蓬莱式(つるかめほうらいしき)の池泉鑑賞庭園であり、裏山の斜面に巨岩を配して造られた渓谷や飛瀑などの石組の景観美は本庭園の最大の特徴となっている。池泉は心字池(しんじいけ)とし、築山中腹にみられる1m以上の3石からなる石組は三尊手法で構成され、江戸時代初期から中期にかけての手法で表現されていると評価されている。

参考文献

山吉田郷土研究会 編 1996 山吉田の古刹 青龍山満光寺覚書 山吉田郷土研究会

満光寺庭園の画像

 満光寺庭園


鈴木重勝石塔
本堂裏手の開山堂内にある鈴木重勝宝篋印塔(画面右端)

満光寺山門
満光寺山門(市指定建造物)


柿本城跡

柿本城跡の遠景

 柿本城は新城市下吉田字柿本地内に所在する城跡で、昭和46年6月12日に市指定史跡となっている。

 遺跡は標高190mを測る子路山(しろやま)山頂付近の端部に所在している。規模は150m四方にわたり、南北90mで東西約55mの長方形を呈する主郭とその東西部の一段低い場所に腰曲輪が配置される。土塁などの遺構は認められないことから、防御性が低かったものと考えられている。なお、石垣のような石積遺構の性格は不明である。

歴史メモ

 本城に関わる記録は少なく、その詳細は定かではないが、鈴木重勝が永禄11年(1568年)に築城を開始したと考えられている。

 元亀2年(1571年)、武田信玄が三河への侵攻を開始し、翌年に武田方の山縣昌景が8千の軍勢を率いて、5百ばかりの兵が守る柿本城に押し寄せた。城主の鈴木重好(すずきしげよし)は、満光寺住職らの仲介によって戦闘を回避すべく和議を結んで開城し、引佐町・伊平に逃げ延びたとされる。家康の遠江平定後は、宇利城主の近藤康用がここに居城を移したとされる。

(画像:柿本城跡の遠景)

満光寺から柿本城跡への登城口
満光寺本堂脇にある登城口

柿本城跡の本丸の様子
柿本城跡の主郭(本丸)の様子


 ここへの登城は、道の駅 三河三石の裏手にある満光寺の脇から徒歩10~15分で行くことができる。

宇利城

宇利城跡の遠景

 宇利城は新城市中宇利字仁田地内に所在する城跡で、昭和32年9月6日に愛知県の史跡に指定されている。

 遺跡は標高165mの山上に所在し、比高差は90mを測る。北側の背後は尾根続きとなり、東西両側に開析谷が形成され、山麓南側は田んぼなどの平地が開けている。西方を除く三方に峠を抱える交通の要所地にあたり、静岡県浜松市三ヶ日町や引佐町などに至る遠江国境に近い位置に立地している。また、南方の対面の山地には比丘尼城が置かれ、両城に挟まれた地域には「市場」、「城屋敷」、「御屋敷」、「馬場」と呼ばれる地名が残り、領主の館や集落が存在したことが伺える。

 中心となる主郭は山頂に位置し、南面を除いた周囲に土塁を巡らした東西40m、南北36mの方形を呈する。その北端に見える幅20m、高さ1.5mの高まりは櫓跡と考えられている。さらにその北側は比高差10mの切岸状の崖となる。崖下には「納所平」と呼ばれる東西25mで南北20mの方形を呈する平坦地があり、その南北端に横堀が設けられている。北側の横堀は長さ20m、幅6mを測り、背後の裏山への連絡路を遮断している。

 主郭と並列するように「姫御殿跡」と名付けられた曲輪が主郭の東側に位置し、37m×19mの長方形を呈する。主郭部より4mほど高く、両曲輪は道を挟んで互いに土塁を設け、虎口の位置関係もほぼ対峙する。南東斜面下の平坦地は、主郭と姫御殿に通じる通路を抑えるべく、前衛的な曲輪の機能を有しているものと考えられる。ここから南方60m地点に松平右京亮(まつだいらうきょうのすけ)討死の石碑がある。

 その平坦地から東側にさらに延びた尾根上に「御馬屋平」と呼ばれる曲輪がある。ここは、南側に土塁状の高まりが認められ、東から北側にかけての斜面下には堀が設けられ、この部分の斜面地の傾斜を強める工夫と思われる。

 ここは、山頂に近い標高165m付近に北側と東側の防備を意識した縄張りが展開されており、中世中頃の形式を伝える山城跡である。

(画像:宇利城跡の遠景)

歴史メモ

 宇利城の築城と廃城の時期の詳細は定かでないが、文明年間(1469年~1487年)に熊谷重実が築城したとされる。城主には熊谷実長や、菅沼定貴、近藤康用らが知られている。

 今川氏に属した城主の熊谷実長は、享禄2年(1529年)に三河統一を目指す松平清康の攻撃を受けた。この戦いは「宇利(城)の戦い」と呼ばれ、『三河物語』によると、清康は松平一族を率いて冨賀寺の裏山に陣を構え、宇利城の大手門や搦め手門から猛攻を加え、その熾烈を極めた攻防戦の最中、家臣の岩瀬庄左衛門の裏切によって落城したという。戦後、功績のあった野田城主の菅沼定則が宇利城を与えられた。

 永禄4年(1561年)、今川方として宇利城の城主となった宇利の近藤家は、永禄11年(1568年)に徳川家康が開始した遠江侵攻に伴い徳川方に帰属を変更した。翌年、武田氏の攻撃を耐えた城主の近藤信用は、この戦功により諱を賜って信用から康用に改めたという。

 天正9年(1581年)の家康による遠江平定後、康用は柿本城に居城を移したとされ、その後の宇利城の状況は不明である。

宇利城跡の本丸の様子

 宇利城跡の主郭(本丸)の様子


 ※ ここへは県道81号の中宇利交差点脇の駐車場から、徒歩40分程度で山頂まで行くことができる。

白倉城跡

 白倉城は天文元年(1532年)に鈴木重勝が三河国・吉田郷の上吉田村に土着して最初に築いた城跡で、城主に鈴木重時、重好の3代が知られている。永禄11年(1568年)に柿本城を築城すると、城主がその地に移ったとされる。浅間山の標高230m付近の中腹を削平して、曲輪が100m四方に認められる。土塁状の高まりは後世の改変と見られ、主郭の周囲に小さな腰曲輪状の平坦地が階段状に展開している。

歴史メモ

 白倉城は市内にある78の城館や砦のうち、13番目の規模を誇る城跡である。そして、16世紀前半までに築城された城跡の中では、川尻城跡、宇利城跡に次ぐ3番目の規模となっている。

 山吉田・鈴木家は白倉城(100×100m)や柿本城(150×150m)を築城しているが、城郭規模の観点のみで捉えると、山家三方衆に関係する道目記城(100×100m)、長篠城(400×350m)、川尻城(150×100m)、亀山城(150×60m)、武田に関係する古宮城(250×200m)、このほか宇利城(150×90m)や野田城(200×50m)に勝るとも劣らない規模の城館を構築している。また、設楽氏の来迎松城、岩広城、川路城など、市内に所在する多くの城館は100m四方以下(単純面積で1万m2以下)の規模が多く、全体の78%を占めている。

 これら城館規模の単純比較のみでは領主の勢力を知ることはできないが、新城地域に拠点を置いた山吉田・鈴木家の勢力・影響力を考える上で1つの参考にはなろう。

(註 長篠城は発掘調査によって16世紀後半以降に曲輪を拡張した改修を受けていることが判明している。)

ダウンロードのリンク 新規ウインドウで開きます。新城市内の城郭一覧表(PDF:125KB)

お問い合わせ

新城市 教育部 生涯共育課 設楽原歴史資料館

電話番号:0536-22-0673

ファクス:0536-22-0673

〒441-1305 愛知県新城市竹広字信玄原552番地

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