歴史人物像との語らいの場として、平成8年3月に門谷表参道に6か所が整備されました。
岡崎の分限者である兼高長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。姫が15歳の春、平家の目を逃れ奥州へ向かう義経が長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。「半年たったら、鳳来寺の千寿峯で私を待て」と言った義経の言葉を信じて、姫は乳母とともに千寿峯のふもとに庵をつくって住みました。ある日、義経が通るという噂を聞き、往来まで出て道行く人に尋ねると、もう義経は通り過ぎてしまったということでした。悲しんだ姫は、庵のほとりで自害してはかない一生を終えました。
徳川家康は1542年(天文11)年12月26日の、寅年寅の日の寅の刻に、岡崎城で生まれました。不思議なことに、家康が生まれたとき、鳳来寺のご本尊である薬師如来を守っている十二神将のうち、真達羅大将がどこかへ消えてしまいました。十二神将はそれぞれ決まった方角と時刻を受け持って、お薬師様を守護しており、真達羅大将は、寅の方角(東北東)と寅の刻(午前4時ころ)を担当していて、寅童子とも言われています。家康の父松平広忠と母於大の方は、天下を治めるような立派な男子を授かりたいと鳳来寺のお薬師様に熱心に祈願していました。家康はその願いがかなって生まれた寅童子だったのです。家康の誕生とともに姿を消した寅童子は、家康の死とともにどこからか元の所に帰ってきたといわれています。家康と鳳来寺の関係を知った三代将軍家光は、鳳来寺山に東照宮を建てました。
若山牧水は明治から大正にかけての有名な歌人で、若いころからいろいろな傾向の歌を作りましたが、とくに晩年は自然を愛し、素直な心情を歌にしながら、酒と旅を楽しみつつ生涯を終えました。大正12年と15年に鳳来寺を訪れ、「仏法僧仏法僧と鳴く鳥の声をまねつつ飲める酒かも」という歌を詠みました。この歌を刻んだ碑は、松高院上の岩壁にはめこんであります。
深い木立に包まれた鳳来寺山では、昔から「ブッポウソウ」という鳴き声がよく聞こえました。昭和10年6月7日から8日にかけて、NHK名古屋放送局は開発したばかりの感度の高いパラボラ型集音機を山中に置き、その鳴き声を全国に実況放送しました。その後、放送を聞いていた人からの連絡により、長年の謎であった鳴き声の主がコノハズクであることが分かりました。
江戸時代の有名な俳人松尾芭蕉は元禄4年(1691年)10月下旬、弟子たちを連れ鳳来寺に参詣しました。前日、新城に住む弟子太田白雪の家に泊まった芭蕉は、弟子たちを連れて鳳来寺へ参詣に来ました。急な坂道の途中で足を休め、「木枯らしに岩吹きとがる杉間かな」という句を詠みました。現在、参道の石段を百段ほど登った左側にこの木枯らしの句碑が立てられています。大変寒い日だったので、冷えたためか、芭蕉は持病がひどくなり、頂上まで登らずに引き返し、表参道にあった家根屋という宿屋に泊りました。この宿で芭蕉は、「夜着一つ祈り出して旅寝かな」という句を詠みました。この夜着の句碑は芭蕉が泊まった屋根屋の跡に立てられています。
鳳来寺山はもと桐生山といって、高さが150メートルもある桐の大木が生えていました。利修仙人は655年頃百済に渡って修業し、帰朝のとき鳳凰に乗ったといわれています。利修仙人はこの山で修業をしていましたが、文武天皇がご病気のとき、仙人は鳳凰に乗って都へ行き、17日間お祈りをして天皇の病気をなおしました。たいへん喜ばれた天皇は、仙人の願いを聞き入れ、利修仙人を開山として桐生山に立派なお寺を建てました。そして、鳳来寺と名付けました。それから、桐生山を鳳来寺山と呼ぶようになったということです。
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