古宮城跡(ふるみやじょうあと)古宮城跡遠景 (南から)

■ 指定年月日

平成30年9月27日(市指定史跡)

■ 所在地

新城市作手清岳字宮山 地内 

(丘陵内に白鳥神社が鎮座する)

■ 歴史

 古宮城は元亀2年(1571)に武田信玄が築城し、その縄張り設計は馬場信春が行ったという。

 天正元年(1573)の「古宮城の戦い」で、城に火が放たれたことで廃城となったとする説がある一方で、「御湯殿上日記」によると、天正3年(1575)に徳川家康の家臣であった大岡弥四郎、山田重英らは武田勝頼に内通して謀反を起こし、その際、勝頼は作手筋に出馬する予定を伝えている。

 この作手筋の詳細は不明であるが、恐らくこの頃も古宮城は存続していたものと推測される。同年に起こった「長篠・設楽原の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍に武田勝頼が敗北したことで、古宮城は次第に武田氏の拠点城郭としての性格が失われていったものと考えられる。

 古宮城の戦い

 元亀元年(1570)、武田信玄の侵攻によってこの地を治めていた国人領主の奥平氏は武田方に帰属を変更したが、元亀4年の武田信玄の死後、奥平定能・定昌親子は徳川家康に内通した。天正元年、奥平親子が居城の作手・亀山城を退去して滝山城に入ると、武田軍はそこに押し寄せた。奥平一族が起こした突然の裏切り行為による混乱に乗じて、手薄となった古宮城は定能・定昌親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍の攻撃を受けて、城は焼き払われて武田勢は敗走したことで知られている。

 

■  立地場所

 古宮城は新城市北西部で標高約535m地点の作手地域の中心地に所在する。ここは周囲を低い山地で囲まれた高原的な地形で、そのほぼ中央部に形成された宮山と呼ばれる独立丘陵に城郭は立地している。また、独立丘陵地の西側を除く3方は泥炭層の湿地に囲まれており、自然の要害地的な地形となる。その湿地は現在、田んぼとして周囲に広がっている。

 周辺地には川尻城跡、亀山城跡、塞之神城跡、文殊山城跡といった武田氏とこの地域を治めた国人領主の奥平氏に関する城郭が立地している。

■ 縄張りの様子

 古宮城跡縄張り図(作手村誌)

城地は東西約200m、南北約150mで比高差は約25mを測り、一山全体に縄張りがされている。山麓周囲を堀と土塁に囲まれ、丘陵中央部には南北方向に延びる巨大な堀切によって東西に丘陵が分断され、この2つの丘陵地は1か所の土橋で連絡している。

 古宮城跡に到着して最初に目につくのが、城郭の南側中央部で東側丘陵に鎮座する白鳥神社である。この神社の脇道の階段や登城道を通り、両袖枡形の出入り口(虎口)を経由すると直ちに古宮城の最高地点の主郭に至ることができる。

 本来の古宮城の登城道は、南西角地に所在する民家の裏手にその進入口がある。その入口は左に土塁、右側に急峻な切岸とで挟まれた堀状の狭い直線的な平坦地となっている。この登城道は西側丘陵の背後(城郭の北側)へ周り込ませるよう一本道のまま伸び、西側丘陵の北側に至るとやや広い広場的空間に出る。ここから西側丘陵の中心部へ至るには南方へ堀と土塁によって九十九折となった通路を3回ほど曲がりながら西側丘陵の最高地点に進む。この通路は土塁の上を歩かせるため、攻める側にとっては隠れる場のない無防備な状態にさらされながら進軍することとなる。

 西側丘陵の最高地点はここの主郭的な性格を有している曲輪である。この曲輪は東西に長く周囲は土塁で囲まれ、曲輪の中央ややや東よりに南北に延びる土塁によって空間が東西に仕切られている。曲輪の東側を除く3方を横堀で囲み、東曲輪の南北の2か所に虎口が形成されていることと、ここから土橋によってメインとなる主郭が所在する東側丘陵に至ることから、この西側の主郭的な曲輪は丸馬出しになっていると言える。

 西側丘陵は一見するとあたかも迷路のような構造となっているが、土塁と堀と丘陵の自然地形を巧みに利用した急峻な斜面によって中心地が守られている。一直線に伸びる登城道は大勢の侵入者(敵)を登城道に沿って自然に長く延びた一列の隊列に並ばせる役目を果たし、土塁の上や丘陵地の高台から、敵の正面や背後、側面から弓矢を放つなど四方八方から大勢の敵に一度で対応できる防備にとても優れた縄張りの工夫が読み取れる。

 万が一、西側丘陵の主郭部に敵が進入しようとしても大堀切を挟んだ対岸にある東側丘陵の主郭部の方がさらに一段高い位置に立地しているため、この土塁の上からの弓矢などによる攻撃も効果的な防備の手段となった。さらには、西側丘陵の主郭部が土塁によって間仕切られて西側の平坦地が虎口のある東側よりも大きくなっていることが、北側虎口から進入した敵に対し、兵士を隠しながら大勢の味方で攻め寄せることができる役割を持っていたことも注目される。たとえここを突破できたとしても、城郭の中心地に至るまでは一本道のうえ土橋、櫓台や両袖枡形虎口が所在し、これらを通過するまでには東側丘陵の主郭を取り囲む土塁の上からの攻撃を受け続けるのである。つまり、この西側丘陵は古宮城の主郭を守るための防備に優れた砦的な位置づけの曲輪群であったと言える。

 他方、東側丘陵は古宮城の駐屯兵などが居住する役割を持った曲輪群で構成されている。東側丘陵の一番高い平坦地が主郭部にあたり、周囲を土塁で囲み、その内部は南北方向に形成された土塁によって仕切られ、東側より西側の主郭が一段高くなっている。そこは城内でも一番高い所に形成された平坦地であることから、ここに信玄が入った古宮城の最重要地であった場所と考えられている。その南側には櫓台が想定される平坦地がある。

 また、櫓台の東隣には主郭へ通じる左右に土塁を伴う両袖枡形の虎口が位置している。ここは正面玄関となった虎口で土塁が主郭へ引っ込んだ形状となっていることから内枡形を呈する虎口である。登城道は主郭の東側平坦地に通じているが、虎口内で緩やかに2回屈曲させることで西側丘陵から土橋を渡った通路から主郭内部への道を喰い違わせる。ここでは、西側丘陵の北側虎口と同様に登城道の傾斜と土塁状の高まりによる主郭への見通しの遮断に加え、両袖の内枡形虎口にすることで虎口前面の敵をここに滞留させるのと同時に、正面と側面への攻撃を容易にしている。この両袖枡形虎口は戦国時代においては武田氏に関する城郭に多く確認されているため、古宮城の見どころのひとつにもなっている。

 主郭北東部の斜面地に展開した4~5段の帯曲輪状の平場群は城郭の最深部と言え、兵士の駐屯地や居住地であったことが推測されている。また、この平場群の南端部で左右を縦堀と上下を切岸状の急斜面で囲まれた出入り口が不明な巨大な広場的空間が1か所存在する。ここは捕虜を幽閉する場所として特別に使用された平坦地であったものと考えられている。                     

 東西丘陵地の裾野は土塁と横堀で囲まれ、さらに西側を除く3方には、かつては大野原湿原と呼ばれた湿地が面的に拡がっており、その名残は現在も周囲の水田が物語っている。西側は国道301号を挟んで向かいの丘陵地が連続したような地形であったされ、この丘陵頂部には武田軍が築城した塞之神城が置かれていた。

 古宮城はまさに自然と人工の英知が結集された防備に優れた高度な技術とプランで築城された城郭であったといえ、古宮城は武田信玄が領地の最前線に築いた境目の城として重要視した城郭であったことを伺い知ることができる。

古宮城跡東側丘陵 両袖枡形虎口

 

 

 

 

 

 

 

 

            両袖枡形の虎口(出入り口)

■ その他

 発掘調査や測量調査などは実施されていないが、平成6、7年頃に東側主郭の北東部に位置する平場群で土師器片が、また平成25年頃には主郭北側虎口付近で瀬戸美濃窯産の陶器皿で16世紀中葉頃の遺物が採取されている。

 城地は山林地の状態で特に公園的な整備は実施されていないが、地域住民の手によって大切に守られ、戦国時代の城郭がほぼ完全な状態で残されている全国的に見ても極めて貴重な史跡となっている。