長篠城跡

 長篠城は、永正5(1508)年田峯菅沼氏の一族、菅沼元成によって築かれました。はじめ今川氏に属し、その後松平元康(家康)へ、そして元亀2(1571)武田氏へ属しました。その後天正元(1573)年には、再び家康が長篠城を奪回しました。
 天正3(1575)年奥平貞昌(信昌)を城主とし援兵を入れて武田勝頼の侵攻に備えました。5月、武田軍長篠城を攻撃、21日援軍の織田・徳川と設楽原で戦い、武田軍大敗。翌年、奥平信昌は城を郷ヶ原へ移し、長篠城は廃城となったとされています。牛渕橋から長篠城跡をのぞむ
 豊川の支流である寒狭川と宇連川の合流点にあり、自然の地形を巧みに利用した戦国末期の城郭の遺構が今もよく残っています。本丸跡を中心に約35,500㎡が指定地となっています。
 周辺には、鳥居強右衛門磔死の碑・武田勝頼本陣跡の医王寺・武田氏宿将の墓など関連史跡が数多くあり、歴史を動かした合戦の全貌を垣間見ることが出来ます。