奥平信昌(おくだいら のぶまさ)

 天正3年(1575)の長篠の戦い。長篠城主であった奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守しました。
 この功績により、翌年貞昌は、信長から一字をもらい信昌と改名し、郷ケ原に新城城を築きました。同年12月、信長のとりなしで家康の長女亀姫をめとり、4男1女をもうけました。信昌の新城築城は、現在の中心市街区を形成する基礎となり、「新城」の地名の由来にもなっています。
 奥平家のふるさとは群馬県吉井町下奥平にあります。8代貞俊の時、作手村に移り、12代貞能、13代貞昌は、今川、徳川、武田に属しながら戦国の世を生きのびました。長篠・設楽原の戦いを経て、新城城主となった奥平信昌(貞昌)は、天正18年(1590)家康の関東入国と同時に上州宮崎(群馬県富岡市)に移り、その後、初代京都所司代となり、慶長6年(1601)岐阜加納10万石の大名となりました。加納では、城下の整備や治山治水事業につとめ、元和元年(1615)61歳で死去しています。
 加納奥平は3代で絶えますが、宗家にあたる宇都宮奥平は家昌・忠昌・昌能・昌章と続き、昌成のときに豊前国中津10万石の大名として迎えられました。藩主は、昌成・昌敦・昌鹿・昌男・昌高・昌暢・昌猷・昌服・昌邁と続き、最後の昌邁は華族令の施行により、明治17年伯爵に任ぜらています。
 大分県中津市の奥平神社では、毎年5月21日に奥平家の子孫が、信昌の長篠籠城を偲び、「たにし祭」を行っています。

奥平信昌肖像画
    (中津市 自性寺像)