道目記城跡(どうめきじょうあと)

種別道々目記城の標柱

新城市指定史跡

指定年月日

昭和33年4月1日

所在地

新城市杉山字道目記 地内

説明

現在の城跡は、千郷中学校用地と横浜ゴム社員寮となっており、中学校運動場の西側脇にわずかに土塁が残っている。

場所は段丘端部に所在し、標高50m、比高差10mを測る。城郭の規模は、地籍図より100×100mの不整形な五角形を呈する範囲で推定されている。

永禄3年(1560)に築城され、天正18年(1590)に廃城となったとされる。

城主は、端城城(杉山)から移った菅沼定氏や定利が知られている。

別名:道々目記城

歴史

道目記城の遺構は現在、土塁の一部を見ることができるがかつては、学校用地の拡幅工事の際、空堀が確認されている。

 この城名は、城地の西側を流れる川(道目記川)の轟くような流れに由来しているとも言われている。

この地は、弘安年間(1278~1287)に近江国甲賀郡塩瀬里から来た塩瀬資時が屋敷を構えて開かれた土地である。

建武2年(1335)、富永荘司としてこの辺りを治めた富永直郷は、この地に椙山保を設置した。富永直郷の祖父、富永四郎大伴資国の長子は大伴資経であり、資経の4男は塩瀬資時である。このような血縁関係から、資時の孫である塩瀬直資は、椙山保司に任命された。その後、塩瀬一族が文安2年(1445)に下々村(新城市八束穂)に移ることで、この屋敷は廃墟となった。

千郷村史によると、この城は、元亀元年(1570)に田峯城主 菅沼定忠が伯父である端城城の城代 菅沼定氏に命じて、道目記の屋敷跡を修理して築城したとされている。

しかし、南設楽郡誌ではこの城の築城時期を永禄3年(1560)としている。定氏は、永禄5年(1562)に築城した椙山の端城城と道目記城の城代を兼ねていることが分かっているが、端城城以前の新城古城時代に城代を兼務していたという資料は見出されていないことから、南設楽郡誌の築城年代では城守が不在の空白期間があったということになる。そのため資料に乏しいことから、道目記城の築城時期を明らかにすることは今後の調査研究の課題である。

元亀2年(1571)に田峯菅沼の一族は武田氏に属したが、、定氏の兄の長男であり田峯城主の菅沼定忠の養子となった菅沼定利は、田峯城から去り、野田城主の菅沼定盈によって定氏とともに徳川方に属してこの城に入城している。

しかし、元亀4年(1573)に武田信玄が野田城を攻撃する際には、この城に武田の本営が置かれ、端城城ともに野田城に開城を求めている。これによって武田軍によって開城した野田城の治めていた領地をこの城で一時、支配した。その後、信玄の死去に伴って、再び野田城に戻った定盈に天正2年(1574)に領地を返している。

天正3年(1575)の長篠の戦いでは、徳川方として参戦している。

天正10年(1582)に田峯・菅沼の家督相続した定利に変わり入城した花房は、天正18年(1590)に至って飯田へ転出したことで、この城は廃城となった。