夷城跡(えびすじょうあと)

種別夷城跡看板

新城市指定史跡

指定年月日

昭和33年4月1日

所在地

新城市上平井字円の平 地内

説明

夷城は、豊川の段丘上を北から南に延びた丘陵先端部にある。

現在この場所は、中央を豊川用水が東西に横断している。また、北側は県道整備や圃場整備事業によってかなり削平されて、原形を留めていないが、南側は民家より高い位置で斜面に囲まれた高台が畑地として利用されている。

この城は、比高差約10mを測る標高80m付近に立地し、規模は東西120×南北150mの範囲に推定されている。

築城年代は不明であるが、城主は奥平土佐守定雄が知られている。また、天正11年(1583)に新城城主 奥平信昌の4男の忠明が産まれたと場所とされている。

別名:夷ヶ谷城、夷貝津城、円の平城

奥平定雄の南進について

奥平貞俊の次子・貞盛は、新城市作手保永(和田地域)を領し、「和田家」を称するが、貞盛の二男・定雄は、天文6年(1527)の石橋弾正の子、弾正某が図った謀反を治めた戦功により、稲木村(新城市稲木)を賜って七族の一員となり、稲毛家の初代となった。

定雄が居城したとされるこの城は、天文6年の功績によって、定雄が作手地域から新城地域に進出したことによる時期に築城を考えることができる。この城は、大谷城から南西方向約700m地点に位置しており、大谷城は天文元年に廃城となっていたことが考えられることから、廃城となっていた大谷城の周辺地に何らかの理由によって、新たに城を築いたものと思われる。

また、新城市豊栄(臼子地域)には、定雄の孫の定友が天正3年(1575)以降から閑居していたことが知られている。

さらに、元亀4年(1573)の『野田の戦い』のときに武田信玄の軍によって炎上、焼失した永住寺(平井郷にあったとされる)を天正2年(1574)に奥平貞能が再建したことや寄進した喚鐘が永住寺に残されていることから、奥平氏と永住寺との関係を知ることができる。

この永住寺は、永正10年(1513)に大谷城主であった菅沼定広が開基とされ、その弟が事実上の開山者とされている【永住寺史】。

これらのことから、奥平氏と大谷城の菅沼氏との関係の一端を知ることができ、この奥平家(稲毛家)が領していた範囲は、稲木を中心にして、上平井、臼子の本宮山の南側山麓地域が推測され、作手の奥平家は七族の稲毛家を拠点として、16世紀第2四半期以降、山間地の作手地域から平地の新城地域に至る道を治めていた可能性が高いことが考えられる。

 

七族:奥平家では、古来より「七族五老」と呼ばれる制度があった。この制度は、奥平家の一族(親族)の中から、軍事をを統率する「七族」と武勲が高く臣属した者のなどから選出した軍務に参画できる「五老」とで構成されていた。