牧野文斎 (まきの ぶんさい)

牧野文斎氏は、医師の傍ら、書籍を購入するなどして集めた蔵書で図書館を建設しました。この施設は、地域の若者へ学習の場を提供するという設立目的とともに地方文化の進展に大きな役割を果たしました。

また牧野氏は、郷土史などの資料収集とともに「長篠の戦い」に関する郷土研究に努め、「長篠古戦場顕彰会」の副会長を務めるなど歴史文化の保存にも尽力されました。

■ 牧野文斎(明治元年生~昭和8年没)

牧野家は代々吉田藩の藩医であったが、文斎の祖父竜庵は、一宮村江島(現豊川市一宮町)から東郷村八束穂(現新城市八束穂)に移り住み、ここで医師を始めました。父謙作、次いで文斎もこの地で医師となりました。

文斎は明治元年5月25日に生まれ、わずか19才で医術開業試験に合格し、名医として評判も高く、明治42年には東三河地方の唯一の総合病院として信玄病院の院長となりました。信玄病院の最盛期には、看護婦100名、3つの病棟に患者が100~200人いたようです。

文斎は医師として、院長として病院経営のほかに、東三電気株式会社、紡績工場、劇場(花菱座:大正2年~昭和10年8月)、図書館の設置など各種の事業も展開して、地域の発展に大きな役割を果たし、昭和8年6月25日に66歳で死去されました。

■ 私立牧野図書館

大正天皇の即位を記念して、大正4年12月18日に独力で開館しました。病院の一画に縦横各6間の2階建て洋風建築の書庫と、同規模の平屋建ての閲覧室があり、事務員2名を配置し、売店も備えたものでした。

図書館では、書籍を2,000円(当時)で豊橋の榎本書店から購入し、さらに個人所有の古文書、一般の人からの寄贈や寄託のものを加え、20,000冊を超える蔵書数を誇っていました。

ここには、県や郡役所などからも閲覧に来る人もあり、図書も無料で貸し出しが行われていました。また、有志による読書会という研究会の会場ともなり、地方文化の発展にも貢献しました。しかし、大正13年頃には諸事情によって閉館となりました。

※ 図書館の設立は、大正天皇の即位を記念した大正初期に多く見受けられます。大正12年の愛知県教職員録によると、公私立併せて19の図書館等が県内にはあり、そのうち南設楽郡内(市域内)には、南設楽郡教育会附属図書館と私立の牧野図書館があり、2つも設置されていました。

※ 昭和12年、閉館後の蔵書は町立図書館の建設話があった新城町へ寄贈され、 現在ではこれらの書籍は、昭和62年5月に開館した「ふるさと情報館(新城図書館)」に牧野文庫として所蔵され、閲覧利用(閉架)ができるようになっています。

■長篠・設楽原を中心にした郷土の研究

文斎が副会長を務めた長篠古戦場顕彰会は、長篠の戦いにおける戦没者供養などの祭霊、遺跡の保存、顕彰などに努める活動を行うために設立されました。その会の代表的な活動のひとつに、大正3年に設楽原の決戦場跡地を中心に武将の陣地や関連地に高さ約90㎝、幅15㎝の石碑を設置し、併せて戦死者の墓碑も建てる活動がありました。また文斎は、昭和5年に古戦場での戦没者のために忠魂堂を建てる活動も行っています。

戦いの顕彰に尽力する中、氏は山家三方衆の由来から武田家の滅亡までの「長篠戦史考(全1冊)」、設楽研究史や設楽沿革史、戦いの前後の歴史を描いた「設楽史要(全9冊)」、応仁の乱から大阪冬・夏の陣までの150年間に亘る「戦国時代史論(15冊)」を著すことを行いました。しかし、加筆・修正を繰り返し、推敲の苦労の中、原稿をまとめあげることは叶いませんでした。

このような氏の意思は、「設楽原をまもる会」が受け継ぎ、「設楽原決戦場まつり」をはじめとして現在も戦跡に関する保存、戦没者供養、研究活動等が行われています。