今水寺跡(こんすいじあと)

種別概要図(看板)

新城市指定史跡

指定年月日

昭和53年11月22日

所在地

新城市八名井字今水地内

文献からみた寺院史

今水寺の開山は弘法大師と伝承されるが、その詳細は不明である。本寺は、真言宗の寺院で本堂に十一面観音を祀り、その傍らに熊野権現を鎮守とし、さらに奥の院として吉祥山山頂に吉祥天が祀ってあったとされる。

今水寺は現在、僧坊もなく古記録もほとんどが亡失している。僧坊は東谷8坊、西谷4坊と伝えるも冨賀寺に残る古文書は21坊と記述されている。冨賀寺の古文書から、おそらく14世紀には当寺で21坊が整備されていたと推測される。

また、天正17年の検地帳写しによると、鎌倉時代は源頼朝から寺領を寄せられ、戦国時代には今川義元の保護を得たという。

寺院の衰亡は、一説には野田の戦いの頃に武田軍に焼かれたとも言われるが、天正の末には12坊も大方なくなり、慶長年間には熊野神社と本尊を祀った観音堂だけであったらしい。これらのことから、本寺の全盛期は鎌倉・室町期であったと考えられている。

遺構の概要

平場は、東谷と呼ばれる熊野神社の位置する尾根と1つ谷を挟んだ西谷と呼ばれる西側の尾根斜面に集中して150か所以上を確認している。しかし、永禄11年の棟札に、北谷の坊名が記しているものや東谷の位置をさらに東方にする伝承があり、本寺の範囲はさらに広がる可能性がある。

平場は南東‐北西方向に延び、北へ行くほどに開いた丘陵の尾根上や斜面に展開し、熊野神社が鎮座する平場の後方やさらにその上で大規模な平坦地が確認され、最高所にある平場が本堂跡と推定される。推定本堂跡を含め、遺構はすべて北西方向に面しており、他地とは異なった様相を知ることができる。ちなみに、本寺の北西方向には三河一宮・砥鹿神社の奥宮が鎮座する本宮山がある。

また、熊野神社が所在する尾根には参道とされる堀割状の遺構が認められ、発掘調査で検出された、13世紀後半に焼失したと考えられる掘立柱建物の出入り口が東側に推測されたことから、この建物は参道に面して建てられていたと想定されている。

平場以外の遺構として、東谷では複数の集積墓群と1ヶ所の経塚?(集積墓に隣接する)があり、西谷では集積墓群1ヶ所が確認されている。

発掘調査の成果

昭和37年に、東谷で14世紀の集積墓群と1ヶ所の経塚?(集積墓に隣接する)を確認し、西谷では10~11世紀と推定される集積墓群1ヶ所を確認している。 

さらに平成7年には、標高約96m~106m地点の南北約75m、東西約45mの長方形を呈する調査地において、大きく3段からなる地形が確認され、掘立柱建物や集石、土壙を検出している。

出土した遺物

山茶碗:碗 ・小皿(渥美窯Ⅱ~Ⅲ期)、古瀬戸:壺・皿、土師器:皿、常滑:甕

その他

現在も明瞭な平場が幾つも山内に所在し、推定される寺域がさらに広がる可能性が分かっている。また、北面に坊院の展開が考えられるものとしても貴重であり、史跡の範囲の見直しや各種調査の実施していくことも今後は必要であるとも思われる。