木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう) 附 木造観音菩薩坐像(つけたり もくぞうかんのんぼさつざぞう)

種別

国指定重要文化財(彫刻)

指定年月日

昭和52年(1977)6月11日

時代

鎌倉時代

説明阿弥陀如来座像

木造阿弥陀如来坐像

本像は像高約90センチを測り、漆を塗った上に金箔をつける漆箔(しっぱく)の技法が用いられています。彫像は一木割矧造で、彫眼、豊かな顔立ち、なだらかな肩など平安時代末期の作風の中に鎌倉時代の作風に見られる引き締まった力量感を見ることができます。

印相は、臨終の信者を迎える上品下生(じょうぼんげしょう)の来迎印を結んでいます。光背は、頭光と体光からなる二重円相の光背となっています。

像内背面の墨書銘から、寛元2年(1244)仏師行慶の作であることが知られています。

この像は、天平20年(748)に行基が彫った阿弥陀仏の前立てとして制作され、金隆山高福寺(廃寺)に安置されていたとされています。

 

観音菩薩坐像

木造観音菩薩座像

本像は像高約80センチを測り、寄木造技法で作られています。また、彫眼、豊かな顔立ちなど面貌が秀麗で、像内背面の墨書銘から、建長2年(1250)の鏡慶作であることが分かっています。

頭部には宝冠はなく、宝髻(ほうけい)は高い位置で髪を頭頂部で一つにまとめたのち、3つに分けて山型に形づけられる三山髻(さんざんけい)を呈しています。蓮華を持っていることから、聖観音像です。

 

 歴史的背景

  これら仏像が所在する新城市巣山は、市東部で静岡県と県境を接する標高約350mの山間地で巣山高原と呼称する開けた場所に位置しています。この地は、江戸時代には鳳来寺と秋葉寺を結ぶ秋葉街道の宿場町として栄え、弘法大師の巡錫伝説も残されています。

 現在、この地に伝わる仏像等の彫刻のうち、国指定2、県指定4、市指定8の計14体が文化財の指定を受けています。

 この巣山地区は、江戸時代以前から金隆山高福寺と野高山栖雲寺の2寺があったとされ、残されている仏像の彫刻年代から中世前半から栄えていたことが考えられています。

 高福寺は、天平20年(748)に行基によって阿弥陀仏と持国・増長天を刻んで安置したことから始まり、南北朝以後に衰微し、明治維新で廃寺となりました。立地場所は現在の熊野神社の西脇の地に推定されています。ここでは、寛元2年(1244)に仏師行慶作の阿弥陀如来座像が納められ、明治初年まで熊野神社参道入り口には「寛元」の墨書銘をもつ仁王像がありましたが、明治18年(1885)に遠州秋葉寺に奉納されました。愛知県史の調査によると、この寺は、先の仁王像の胎内墨書銘から元々は「阿弥陀寺」とあり、「三川古文書」所収の資料から応永22年(1415)までには「高福寺」と改称されていたことが分かりました。寺の最盛期は上述の彫刻のほか、阿弥陀堂旧蔵鰐口(建治2年(1278))、太田家旧蔵棟札写(嘉暦3年(1328))から13世紀半ばから14世紀前半頃には隆盛を極め、応永年間(1394年から1427年)に近隣地の栖雲寺が再興されると本寺はその庇護を受けて存続していたことが推測されています。

 一方、栖雲寺は弘法大師の諸国巡礼の際に立ち寄られ、ここに薬師如来を本尊として造り安置したことから始まります。高福寺と同様に南北朝以後は衰退したが、応永年間に再興され、この頃真言宗から臨済宗に改めて、本尊を聖観音像としたようです。

 明治維新後に一度、熊野神社や高福寺にあった仏像をこの栖雲寺に移されましたが、地区民が神道に改宗したことからこの栖雲寺も廃寺となりました。

 そのため、熊野神社の氏子がこれら仏像彫刻を一ヶ所に集めて収蔵庫において管理することで現在に至っています。

【参考文献】

鈴木重安 1956 改訂八名郡誌

鳳来町教育委員会 1967 鳳来町誌 文化財編

鳳来町教育委員会 1998 鳳来町文化財ガイド

山岸公基、塩澤寛樹、堀恭子 2005 「寛元在銘の静岡・秋葉寺(愛知・巣山区伝来)金剛力士像」『愛知

県史研究 第9号』