第1ケース   武田信玄の雄図 

  時は国の制度が乱れた戦国の世。武田信玄は「風林火山」の旗をたて、甲州から近隣の国々を従えながら勢力を拡げていました。長篠城主菅沼正貞が信玄に降伏したのは元亀2(1571)年でした。

 翌年10月、信玄は京を目指して甲州を出発しました。遠州二俣城を取り、三方ヶ原で家康を破り、三河野田城を攻め落としました。しかし、信玄はこの野田で病気となり、京に上るのを断念、長篠城や鳳来寺、田口の福田寺等で休養しつつ故国甲府を目指しましたが、信州駒場で死去しました。

 信玄の死後、家康は長篠城を占拠し、作手の奥平貞能とその子貞昌を味方に引き入れました。怒った武田勝頼は、奥平の人質(仙千代、虎之助、おふう)を処刑にしました。

第1ケースの主な展示品
  • 武田信玄図(正恭画)
  • 「風林火山」の旗(模型)
  • 信玄のかぶと前立(写真)
  • 設楽町田口福田寺境内の信玄の墓(写真)
  • 根羽村横旗の信玄の墓(写真)
  • 塩山市恵林寺境内の信玄の墓(写真)
  • ・信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)

 

 武田信玄図(正恭画)     「風林火山」の旗

 

第2ケース   長篠の籠城   

 信玄は死に臨み、「3年間は戦いを止めて国力をつけよ」と遺言しましたが、勝頼はそれを無視、天正2(1574)年、美濃明智城を取り、遠州高天神城の攻略に成功、自信を強めました。

 天正3(1575)年5月8日、勝頼は1万5千人を率いて長篠城を囲みました。これに対して奥平貞昌は500人の城兵で城に立て籠り、対抗しました。

 武田軍は8日から14日にかけて猛然と攻め掛かりました。しかし城はなかなか落ちません。そこで武田軍は城の周囲に柵を作り、川に鳴子網を張って厳しく見張り、兵糧攻めの作戦を取りました。

第2ケースの主な展示品
  • 鉄錆六十二間星冑
  • 籠城の折りの陣太鼓。(血染めの陣太鼓という)
  • 奥平氏の船印家紋
  • 城内から出土の炭化した食糧品等
  • 雑兵具足、陣笠

 

 鉄錆六十二間星冑     奥平氏船印家紋

        

第3ケース   鳥居強右衛門の勇気 

 5月14日、強右衛門は城主貞昌の命令を受け、夜半、城を抜け出し豊川を下り、雁峰山で「脱出成功」の狼煙を上げました。そして岡崎城に赴き、家康と信長に城の様子を伝え援軍を頼みました。

 強右衛門は役目を果たし舞い戻りましたが、武田軍に怪しまれ捕われました。そして武田本陣で「援軍来ず、早く開城を」と叫べ、さすれば命を援け恩賞を与えようと誘われました。彼は、一旦承諾の態度をとり城の近くに立ちました。そして「援軍は野田に着いた、安心して城を守れ」と絶叫しました。武田軍は怒って彼を磔刑にしました。

 第3ケースの主な展示品
  • 強右衛門磔刑の図(模写)
  • 強右衛門が城と岡崎を往復した道(地図)
  • 紺糸威五枚胴具足(新昌寺所蔵)
  • 鳥居家に伝わる鍔
  • 強右衛門城脱出を描く錦絵

 

 強右衛門磔刑の図

        

 第4ケース   決戦の前夜

 織田・徳川連合軍3万8千は3千丁の鉄砲を準備し5月18日、設楽原に到着しました。そして連吾川の西側に沿って3重の馬防ぎの柵と堀、土塁を構築しました。

 19日、勝頼は医王寺山の本陣で軍議を開きました。老臣馬場美濃守信房らは決戦を避けるよう主張しましたが採り上げず決戦を決定し、豊川を渡って設楽原に進出しました。

 これに先立って19日の夜、馬場、山県、内藤、土屋ら4人の武将は大通寺裏の泉に集まり、水杯で決死を誓い、最期の別れを惜しみました。

 第4ケースの主な展示品
  • 鎖頭巾
  • 陣中水呑み
  • やじり
  • 槍の穂先
  • 蓬宇の句
  • 野田菅沼の空穂具
  • 軍弓

 

陣中水呑み     槍の穂先(城跡出土)    

 

 第5ケース   設楽原の決戦

 家康の重臣、酒井忠次は5月21日の夜明けに鳶が巣山の武田軍の砦を急襲し戦闘の火蓋を切りました。不敗を誇る武田軍は、騎馬戦術をもって設楽原に突き進んで行きました。織田・徳川連合軍は武田軍を馬防ぎの柵際に引き寄せ、3千丁の火縄銃を代わる代わる発射しました。はじめ優勢だった武田軍も信長の新戦術の前に諸将は相次いで倒れ、昼頃には敗色濃厚となりました。これを見た馬場信房は残兵80人を率い、勝頼を援護して殿戦(しんがりせん)を務め、勝頼が寒狭川の左岸に渡ったのを見とどけて、織田方の塙九郎左衛門直政の従兵、川井三十郎に首を授けました。勝頼を援護するために踏み止まって戦死した者は、川窪備後詮秋、望月甚八郎重氏、小幡備前直員、小山田十郎兵衛盛昌、土屋備前直規、酒依清三郎昌光等、数百騎でした。

 この戦いの戦死者は武田軍1万、織田・徳川連合軍6千といい、戦闘は壮絶であったようです。

第5ケースの主な展示品
  • 長篠合戦図屏風の複製(原図は徳川美術館所蔵)
  • 矢立の硯(設楽原連吾川沿いで出土)

 長篠合戦図屏風の複製

                 

矢立の硯

 

 第6ケース   長篠の戦いと鉄砲

 天文12(1543)年、わが国(種子島)に初めて鉄砲が伝わり、それ以後製銃、火薬製造の技術が急速に発達しました。信長は雑賀(さいが)根来(ねごろ)の鉄砲集団の動きをみて、鉄砲を新兵器として位置付けた戦術を編み出しました。

 この頃の鉄砲は、弾丸を筒先で込める仕掛けでしたので、発射までに2~3分の時間がかかりました。信長は、千丁づつ交互に発射させ、弾丸込めの時間のずれをなくしました。 

 鉄砲を使用した主たる戦い
1555(弘治元)年 厳島の戦い
1553(天文22)年~ 川中島の戦い
1560(永禄3)年   桶狭間の戦い
1570(元亀元)年   姉川の戦い
1570(元亀元)年   石山合戦(~80)
1575(天正3)年   長篠の戦い
1584(天正12)年   小牧・長久手の戦い
1600(慶長3)年  関ヶ原の戦い
1614(慶長19)年~ 大坂の陣

第6ケースの主な展示品
  • 各種火縄銃
  • 出土した弾丸 鉛玉

 

   火縄銃

 

 第7ケース   戦いとその後

 馬場信房は怒涛のように攻め来る連合軍を食い止めつつ退き、勝頼が豊川(寒狭川)を渡って退却する姿を見届け、自らの首を敵に差出しました。勝頼に従うもの僅かに数騎、武節城を経て信州に落ち延びました。

 長篠城主貞昌は、信長から「信」の一字をもらい信昌と改め、天正4(1576)年新城城に移り、長篠城を廃城としました。

 時は流れて天正10(1582)年3月、勝頼は信長軍に追い詰められて天目山に滅び、信長も同年6月、家臣の明智光秀に背かれて本能寺で死にました。

 第7ケースの主な展示品
  • 馬場信房の最後(模型)
  • 勝頼画像(甲府市法泉寺所蔵原画の写真)
  • 田峰城と武節城(写真)
  • 勝頼の退路
  • 馬場美濃守信房公(写真)
  • 雑兵具足

 

   馬場美濃守信房像(鎌倉 馬場英太郎氏 提供)           

 

第8ケース   史跡しらべ 

 長篠の戦いは城攻めと野戦を兼ねたもので、戦場は長篠城周辺と設楽原一帯でした。当時の設楽原は、湿地と採草地用の丘の連続する地帯で、100戸程の人家がありました。

第8ケースの主な展示品
  • 戦跡の模型
  • 古戦場航空写真

 

 設楽原全景

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