設楽原決戦場

 

設楽原決戦場

  日本三大決戦の一つとされる長篠・設楽原の戦いは、初めて新兵器鉄砲(火縄銃)を大量に使用し、その威力をまざまざと見せつけ、後の戦術に一大変革をもたらした日本史に残る著名な戦いです。
 設楽原決戦場まつりは、「設楽原をまもる会」が中心となって、毎年7月に戦死者の供養、鉄砲隊の演武などが行われます。

 

馬防柵

 

馬防柵

これは、馬防柵といって、武田騎馬軍団の進撃を阻止する馬防ぎの柵で、織田・徳川連合軍は陣地の前にこの柵をめぐらし、鉄砲隊を並べて待ち構えました。馬防柵に押し止められたその上に、3千挺の火縄銃が絶え間なく火を噴き、武田騎馬軍の惨敗で終わりました。近代兵器鉄砲が、伝統的な刀と馬の戦法に取って代わった決定的な瞬間でした。

 

野田城址

野田の戦い

  野田城にまつわる戦いは数々ありますが、歴史上最も著名な戦いは元亀4年の武田信玄との攻防です。元亀3(1572)年、三方ケ原で家康と戦い、翌年正月上洛の悲願に燃える武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入し、野田城を攻略しようとしました。
  菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の守る野田城は小城でしたが、備えが堅く、城兵の士気も盛んで、なかなか攻め落とせませんでした。そこで武田勢は長期戦を覚悟して、まず竜淵・桑淵の水を落とし、甲州の金堀衆を呼んで本丸の東と西から坑道を穿って、井戸水を抜く断水戦術をとりました。

  急を聞いた徳川家康は旗頭山まで出陣しましたが、武田の大軍に敵しがたく吉田城に退き、定盈は1ヶ月余持ちこたえましたが、水を抜かれ、援軍も来ないので山家三方衆の仲介を受け入れ、城兵の命と引き換えに開城降伏しました。
  又、元亀4年の戦いには信玄が鉄砲で撃たれたという話が伝わっています。城内にいた笛の名人、村松芳休の奏でる笛の音に、夜、信玄が聞きほれて堀端に出たところを、鉄砲の名人、鳥井半四郎に撃たれたということです。
  ともあれ信玄は、このころから病気になり、この帰路の途中、信州駒場で死んだらしい。

 

 新城城跡

新城城跡の碑

天正3年(1575年)長篠の戦いの結果、織田・徳川連合軍の大勝利に帰したので、奥平貞昌は、信長の信の一字をもらって信昌と改め、家康の長女・亀姫をめとって新城城を天正4年(1576)に築城しました。
 しかし、現在城はなく城跡には現在新城小学校が入っています。本丸跡といわれる運動場一帯は、かつて堀と土累で囲まれていましたが、現在は、東方土累と南方土累が残るだけになっています。なお、東方土累には「新城城跡」の碑があります。

 

宇利城跡


 


 宇利城は、文明年間(1469~87)に熊谷重実により創建されたものである。三方を山に囲まれた天然の要害に築城されており、曲輪(くるわ)、土塁、壕、井戸等、山城としての遺構が比較的しっかり残っている。

 

宇利の戦い


 享禄3年(1530)11月4日、松平清康は三千余りの軍勢を率いて、東三河をめざして岡崎を出発した。当時 東三河は今川氏の勢力範囲であったが、清康はこの機に東三河を手に入れようとした。吉田、田原、牛久保、作手、田峰、野田、西郷、伊奈、設楽などの勢力はそれぞれ松平方になびいたが、宇利城主熊谷実長が従わなかったので、宇利城に向けて攻撃をはじめた。
  野田城主菅沼定則を案内として、東上で豊川を渡り、宇利の郷に入ると民家に火を放ち、兵を正面と背面の二手に分けて城に迫った。正面から攻めかかった松平右京亮(清康の叔父)は討死し、前面が沼田で,裏手を山で囲まれた登りの険しい地形であるため、松平軍勢は苦戦をしたが、松平方に通じた岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いにいずこともなく落ちのびていったといわれる。

史跡の指定

  昭和32年、城址が当時の状況をよく残し、山城の攻防の史実が史籍に明瞭にされており、学術的に価値が高いことから愛知県山城指定史跡第1号に指定された。