鳥居強右衛門磔図

 

長篠・設楽原の戦いを語るとき、鳥居強右衛門の活躍を話さないわけにはできません。彼のとった行動は400年以上経った今でも語り継がれるほど衝撃的でした。

◆援軍の使者として

わずか500人の兵で守る長篠城。激しい武田軍の猛攻に耐える長篠城でしたが、まだまだ士気は高く、武器、食料も十分でした。しかし、長引く籠城に、援軍が来るのか、いつまで籠城をしなくてはならないのか、そんな気持ちが城内に広がり始めていました。

城主奥平貞昌は家臣を集め、岡崎へ援軍の使者として鳥居強右衛門を遣わすことを相談します。城主の命を受けた強右衛門は深夜、城を抜け出し、豊川を泳いで下り、雁峯山でのろしを上げ、作手を抜け、岡崎へ。貞昌の父貞能を介して、家康と信長の前へ。長篠城の状況を伝えるとともに、大軍が集結している様子を確認した後、強右衛門は長篠へ引き返します。

雁峯山で再度のろしを上げ、城中へ入ろうとしたところ、武田の兵に捕らえられてしまいます。城内に向かって「援軍は来ない」と言えと、「そうすれば命を助け、武田の家臣として召抱えよう」と言われた強右衛門。長篠城のそばまで連れてこられ、大声で叫びました。「援軍はすぐそこまで来ているぞ。もう少しの辛抱だぞ」と。

城内で歓声が上がりましたが、武田との約束を破った強右衛門は磔になって殺されてしました。

◆もう1人の使者

実は鳥居強右衛門の他にもう1人使者に立った人物がいたと伝えられています。その人物は鈴木金七郎です。彼は帰路に雁峯山でのろしを上げるところまで、鳥居強右衛門と同じ行動をしていました。ここでのろしを上げるまでが彼らに与えられた命令でした。その命令を果たした金七郎は厳重に囲まれた長篠城に再度入城することは不可能と考え、ここで強右衛門と別れます。金七郎はその後、奥平貞昌の子、松平忠明に仕えますが、やがて武士を辞め、作手に残ったといわれています。

◆磔図のこと

鳥居強右衛門が磔となった時に描かれた絵が残されています。これは武田軍にいた落合佐平次が強右衛門の姿に感動し、絶命直前に強右衛門に了解をもらい、旗指物として描いたものです。

近年、この絵は頭が下で足が上になるという「逆磔図」説が打ち出されました。現在、掛け軸になっているために本来の上下が分からなくなっていました。

しかし、東京大学史料編纂所などの共同研究の中で、本物や古い写真などさまざまな磔図を確認し、従来どおり、頭が上で足が下という磔図が正しいということが再度確認されました。

設楽原歴史資料館蔵

『広報ほのか』平成24年2月号より転載