信玄砲

 

信玄砲

 

設楽原の決戦で、織田・徳川連合軍は3000丁、武田軍も500丁ほどの火縄銃を使ったといわれています。これほど多くの火縄銃が戦いに使われたにも関わらず、この戦いで使われた火縄銃は今、1丁も残されていません。

▼数少ない戦国時代の火縄銃

戦国時代、数多くの火縄銃が作られました。しかし、戦国時代に作られた火縄銃は現在、数丁しか残されていません。今、私たちが見る火縄銃はほとんど江戸時代に作られたものばかりです。

それはなぜでしょうか。

戦国時代の火縄銃は戦いに勝つために、たくさん使われていました。火縄銃は行われる戦いの中で壊れてしまいます。壊れた火縄銃は使えませんので、新しい火縄銃に交換をしていきます。しかし、戦いのない平和な江戸時代。武士は起こるかもしれない戦いのため、火縄銃をいつでも使えるように持っていなければなりませんでした。

このため戦国時代の火縄銃は数が少なく、江戸時代の火縄銃は数多く残されています。

▼信玄砲にまつわる言い伝え

新城には数少ない戦国時代の火縄銃が1丁残されています。【信玄砲】といわれる火縄銃です。

長篠・設楽原の戦いの二年前、武田信玄は野田城を3万人の兵で取り囲みます。野田城主菅沼定盈はわずか400の兵で1ヶ月間、武田軍の攻撃に耐えます。

その激しい攻防の中で、信玄砲が登場する伝説が生まれます。

「夜になると武田軍の激しい攻撃も止み、野田城は静けさに包まれます。その静けさの中、城内から流れてくる笛の音は武田軍本陣にいた信玄の耳にまで届いていました。笛を吹く村松芳休は以前、武田家にいたこともあり懐かしさと、戦乱に明け暮れた中、心の安らぎを求めた信玄は城の近くに腰を据え、笛の音に耳を傾けます。

城内から暗闇の中、信玄を見つけた火縄銃の名人鳥居三左衛門。籠城の前に家康から与えられた火縄銃を構え、信玄を狙って引金を引きます。武田軍の中に大将が撃たれたと動揺が走りました。」

信玄が狙われる場面このときに使われた火縄銃が【信玄砲】です。武田信玄は野田城を落としたあと、この怪我がもとで、甲斐国への帰る途中、亡くなったとも言われています。

現在は銃身のみが残されていますが、この伝説が無ければ信玄砲は残らなかったでしょう。戦国最強ともいわれた武田信玄を撃ったという伝説がこの信玄砲を今に残させたともいえます。

設楽原歴史資料館寄託/宗堅寺蔵

『広報ほのか』平成23年5月号より転載