何年か前のこと。新城からさらに奥の山間の地域で、ある集まりがあった。細部はおぼろげな記憶だが、女性団体の集まりで、アジアの途上国から来た女性の話を聞く会だった。

 

 話の本筋ではないけれど、講師の女性が言うに、「この地域の方は、皆さん、うちは田舎で、後れていて、何もない、と言われるけれど、私に言わせれば違う。私の国の基準からいえば、ここは都会だ。だって、水道も電気もあるし、道路も舗装されている。立派な会館もあるし、着てるものだって東京なんかと違わない。車でちょっと走れば、高速道路に乗れる。・・・・」

 

 もちろん「都会VS田舎」の比較も相対的なもので、時代、国情、経済水準によって物差しが違ってくる。日本の過疎地住民が、途上国の状況を持ち出されて、あなた方は恵まれていると言われても、それで何かが解決されるわけではなかろう。そしてそんなことは、この講師だって百も承知で、そんな苦言を呈するために上記を話題にしたのではなかった。

 

 彼女の言葉を通じて、あらためて、なるほどねぇ、それはそうだよねぇ、と、会場の皆さん(私も)が感じたのは、日本の「都会」と「田舎」が意外と近接しあっているのに、そこに暮らす人たちの意識が互いを実際以上に遠ざけてしまっているのではないか、ということだったと思う。

 

 そう、いまの日本の都会と田舎は、格差があるが、極端な断絶状態におかれているわけではない。都会人で田舎暮らしをしたいと思っている人はたくさんいるし、田舎に住みながら都会の便利なところを折節に楽しんでいる人もたくさんいる。

 

 都会が都会だけで快適であり続けることはできないし、逆も同じ。そいうことはみんな分かっている。子どもの教育に、豊かな自然環境が必要なことだって、否定する人はいないだろう。都市と農山村の交流は、多くの地域で多様な形で取り組まれていて、文化、教育、福祉、観光、スポーツなどの分野で、必須のメニューとなってきている。情報社会が、その距離感を一段と縮めている。

 

 多くの人はその流れを受け入れ、加速させ、それがこれからの日本に新しい豊かさをもたらすだろうと、予感している。

 

 ここ数日書いてきたことだが、「過疎対策」等の国の「垂直補完」は、道路を改良したり、上下水道を整備したり、会館を建てたり、補助金メニューをそろえたり、またそれらによって、国民生活に地域間の極端な断絶が広がることを防いだり、という仕事には、実に有効な役割を果たした。

 

 けれど、つながった道路の上をお互いに行き来する人の流れをつくることは苦手だ。

 

 予算を投じてホールをつくることは得意だが、そこで楽しみを提供することは不得手だ。

 

 農地の整備は効率的にやれるが、そこに新しい就農者をよびこみ、その人たちにあった農作業体系をつくることはどうにも下手だ。

 

 これは「国」という機関の性格上、宿命に等しいのではないか。こんなことまで万能にやれる国家機関があれば、市町村だとか、地域自治組織だとかは、そもそも不要だろう。

 

 日本の福祉サービスが、介護保険を機に大きく変わったのは、公共施策の中心が、困った人に給付金を配ることから、家族労働を社会化し、人手によるサービス提供を主体にするようになったからだが、こういう事務は、国がやるよりも、住民にもっと身近な政府がやる方がいい。というよりも、そうでしかやりようがないのだ。地域に住む人同士の関係をいかに組織化するか、そういうテーマをはらんでいるからだ。

 

 都市と山間地との関係においても、同様の事態になっている。

 

 隣接する自治体同士、地域同士が、それぞれの内情を理解しあって、それぞれの地域に住む人々のほんとうの要求や必要をくみ上げ、その事情に適応した仕組みを企画し、それをうまく動かせる人材を募り、それにとって一番効率的な資金投入を決める。

 

 生活圏域が広まり、従来の行政境界を越えた新しい公共活動が求められてきている以上、国の垂直補完を主体にするよりも、住民間の水平扶助を主体にするほうが、社会全体にとってもプラスが多くなるのではなかろうか。

 

 「国が面倒をみればいい」と言っているうちに、その負担が非効率ゆえに国民生活に重荷になって、お互いが反目しあう、これが従来どおりを続けているとこうむる、最大のリスクだろう。

 


 

 昨日に続き、隣接の村、豊根から。

愛知県唯一のスキー場「茶臼山高原」。

スキー場1

 

今年は雪が少なく、

人工雪のゲレンデ

でした。

(1月31日撮影)

 

 

 

 

スキー場2

 

春にはこの一帯が、「芝桜」の庭園になります。

2008年6月17日ブログ『天空のお花畑』をご参照ください)