「お荷物論」
昨日(1月28日)の『合併の心理学』で、合併は水平の相互扶助体系に変わるだけなので、山間部が都市部のお荷物になるといった議論にはいささかも動じる必要はない、との新城市長発言を報じた新聞記事を紹介させてもらった。
山間部と都市部は、今でもお互いを負担し合っている。
山間部からみればダムのような都市部のための施設で、多くの犠牲を払っている。
都市部からみればその経済力によって、過疎地の財政補助財源をまかなっている。
ただ今の日本のシステムでは、このほとんどを国が媒介している。
地方交付税制度がその代表で、国税として徴収された資金の一部を、地方間、都市間、地域間の不均衡をならす財源にして各自治体に振り分ける。それによってまがりなりにも「ナショナルミニマム」が達成され、どんな山奥に行っても道路は舗装され、電気やガスに不自由することはないという、比類なき社会をつくりあげた。
しかしこのメカニズム、ふだんの地域生活のなかでは、ほとんど意識されることはない。地域生活にとって中央政府は遠い存在だし、自分たちのコントロールがきく組織でもない。要は「国がやること」なので、たとえば都市住民からみれば山間地の過疎対策なんて「国や県が面倒をみればいい」こと、それをなんで広域合併してわざわざ自分たちでやらなければいけないのか、お荷物をかかえるだけではないのか、となりがち。
現実にはこの仕事、国民全体がになっている。国家公務員を雇ってるのも国民、その仕事の費用をまかなっているのも国税。
だから別々の自治体で確保していた財源を一つに合わせて、そのなかでやりくり算段する形にしても、それで一人ひとりの負担が増えるわけではない。各地域間のバランスをとる仕事を国を媒介とせずに、お互い同士でやる、つまり「垂直補完」から「水平扶助」に変えるだけなのだから、「お荷物論」なんかであわてる必要はない、というのが私の論旨でありました。
もちろん最初は、昨日書いた「合併の心理学」が負の方向にも働くので、いろいろギクシャクする。
別々の家計を営む家同士であれば、隣がリフォーム工事をしても、薄型テレビを買っても、横目で見ているだけだが、財布が一つになると、お互い相手の出費が気に入らなくなる。お前が多すぎるので、俺が少なくなると、なりがち。
しかしそこではじめて隣人の状況を理解しあう。そして次第に適正な分配を学び、どうしたらお互いの力を高めあうことができるのかを体得していく。
国―都道府県―市町村のあいだで何度も書類をやりとりし、形式的な議論に振り回され、画一的な様式に縛られ、意思決定に膨大な時間が費やされる、今の仕組みよりも、はるかに効率的に、かつ地域個性をもった政策効果を上げていくことができるだろう。
「地方政府」を実体化させるに、このプロセスは欠かすことができないのではないか。









