昨日まで書いてきたようなことは、学校現場ではすでに現実に対応を求められ、取り組まれていることだと思う。

 

 前にも触れたように、障害のある生徒、集団生活になじめない生徒、あるいはまた日本語をよく使えない外国人の生徒たち。一昔前までの学校教育は、こうした生徒を想定していないか、あらかじめ除外することで成り立っていたが、今は時代の要請がまったく違ってきている。

 

 けれども教員配置からカリキュラムから学校行事のあり方から、多くのものが新時代に適応しているわけではない。何とかやりくりしながら、それぞれの対応に追われているのが現実だろう。

 

 そうこうしているうちに、いろいろなノウハウが蓄積され、多様な現実を当たり前のように受け入れる習慣が、教える側にも教えられる側にも身についてくる。もちろん「きしみ」も生じるわけで、特別な対応をしなければならない生徒に割く時間や労力の分だけ、他の生徒たちへの対応が手薄になったと非難される場合もある。

 

 そんなことを乗り越えながら、われわれはもう一つの真実に気づくのだ。つまり「ふつうの」生徒と括られているすべての生徒たちもまた、個々一人ひとり特別な教育プログラムを組まなければならない生徒と同じように、それぞれの発達や個性に見合った課程を必要としており、そうできればどれほど充実した学習を保障できるだろう、ということがそれだ。

 

 いろいろな塾や教室がこれほど広がったのも、そんな現実を写し出しているのではないか。

 

 集団のなかでの評価、一定の年限で区切られた進度の評価とは別に、その人固有の(その人だけに固有の)発達経路があるはずだが、いまの教育システムはそれを一貫してフォローする仕組みも、教育機関相互の連携・協力体制も用意していない。

 

 この課題に答えるには、さまざまな角度からのアプローチが必要だが、乳幼児期の教育はその最大要素の一つになると思う。この時期に人のメンタリティの多くが基礎づけられるのだし、その後のあらゆる教育・学習の効果を規定するからでもあるし、人の個性をみきわめる最初の出発になるからでもある。

 

 「教育再生」をめぐる議論を聞いていると、いまの教育ではきれいな花を咲かせない、おいしい実をつけないとなじり、もっときれいな色の絵の具を用意しろ、栄養豊かなサプリメントを与えろと言わんばかりのものが散見される。

 

 花や実をつける前の段階、種を植え、芽を育て、根を張るときに十分な手当てをせずに、あとになって肥やしを増やしても効果は半減だろう。

 

 ではこれを「誰が」やるのか。昔は経済的に余裕があったり、特段に教育熱心だったりする家庭が幼稚園や早期教育に子どもを通わせ、一方「保育に欠ける」子は保育園に「措置する」という区分けがなされていたが、いまでは働く女性があたり前になってきて幼保一元化というところまではやってきた。

 

 前から述べているように、私はもう一歩進めて、幼児期の教育を社会全体が引き受けるべきだと考えている。「幼保全入」もしくは「(準)義務化」とでもいうのだろうか。

 

 家族形態が多様になり、親の経済力によって受けられる教育水準の格差が拡大し、子育てに不安を抱える若い世代が増え、ときにはネグレクトやDVの脅威にさらされる子ができてしまっている現状のなかで、未来をになう世代のためにわれわれができることは何だろうか。

 

 今年からスタートする新城市第1次総合計画では、こうこたえようとしている。

 

 『本市では、少子化対策と合わせた子育て支援を「次世代人材育成」と位置づけ、「子どもを育てる」ことを単に親の義務としてとらえるのではなく、「地域社会の義務」と考えます。そして、子どもが健康に育ち、子どもを生み育てることに喜びと安心を感じることができる地域社会を構築するため、子どもや子育て家庭を、地域社会やNPO、ボランティア、企業、行政が、世代を超えて支援する体制と既存制度の見なおしに取り組みます』。

 

 これが私たちの志だ。

 

さて先週の土曜日(6月7日)四谷千枚田で、ろうそく1500本を道や田沿いにともす「お田植え感謝祭」が行われました。

 

感謝祭準備 

設置風景。地元小学生がつくった「廃油ろうそく」も仲間入り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ろうそく

 

それぞれはこんなほのかな灯り。

竹でできています。

 

 

 

 

 

 

 

 

全景

 

それがいっせいにともると。

 

幽玄!

 

 

 

 

 

花火

 

この日は花火も打ち上げられました。

 

ナイス!!