ヒトの発達
人間の発達に関する研究は、ここ数十年の間で従来の常識をどんどん塗り替えているようにみえる。専門知識のない私にさえそう映るのだから、専門研究の最前線ではきっとすごいことが起こっているに違いない。
あるいはどうだろうか。保育園、幼稚園、小学校の現場では、次々と新しい課題に取り組まなければならなくなっている。「発達障害」のように従来は障害とは考えられていなかったことも、最新の知見によって別の教育プログラムを組むことが求められている。
食物アレルギーも実に多様なバリエーションがあって、調理師さんたちの日々の苦労もさぞやという状況だ。
かつてわれわれの世代は、生命体の生存目的を「固体の維持と種の保存」という風に習ったが、いまではひとこと「DNAの継承」と総括され、身体機能の見方も違ってきている。脳の研究にいたっては物凄いことになっているようで、それにつれて人間の意識に関する理解、つまり人間の自己認識そのものも劇的に変化していくだろう。
昔は、生まれてすぐの赤ん坊は物も見えず、外界の認識能力が低いと言われていたのに、いまでは大変な力があるようだと言われている。
いま例示したことはほんの一端で、ともかくこの面での変革は凄いものがあると思うのだが、では、人間の成長を促し、一定の水準へと人を導くべき仕組みの側にそれが反映されているかというと、これまた凄まじいくらいに旧態依然のままなのではないか。
『「ダイヤ」と「カリキュラム」』(5月20、22日ブログ)で述べたように、同一年齢の子どもは同一程度の能力と発達進度をもつというフィクションにもとづく学習過程もそうだし、標準偏差にもとづく学力判定もそうだし、それにもとづく集団学習も学級崩壊のなかで試練にさらされている。これに不安を感じる親や子は、公教育システムの外でニーズを満たそうとするので、家庭の経済状態によって受けられる教育に画然たる差ができてしまう。
人間の成長にとって最も大切と言われている乳幼児期についても、国は本気で光を当てているようには思えない。
――この話題続けます。

きれいな写真が届きました。
可憐なササユリ。
桜淵近くで。









