もう一つの学校、その始まり
戦前・戦中に国は、朝鮮半島や中国東北部(旧「満州」)に植民を進めたが、敗戦後に引き揚げてきた多くの人々に対して、かつての出身地は温かく帰りを迎える場所というわけにはいかなかった場合がある。
元々その地では大勢の人口を養えなかったからこそ、海外への入植を進めたのだ。敗戦直後の食糧難時代に事情が好転しているはずがない。そこで国はそうした人々のために国内各地に入植地を用意したのである。
私は数年前にそうした入植地の一つで、人の世話になったことがある。気候、風土ともきわめて厳しい土地だが、皆さんのたゆまぬ努力で特色ある農業経営を確立していた。その時私は、戦後入植の歴史を記録した文書を見せてもらった。
以前は国有林(「御料林」)だった所で、その山の一部を伐採して入植地にしたという。それで分かるとおり、元来が田畑に適した場所ではないので、開墾し、土を肥やし、水の工夫をし、ある程度の収穫を得るようになるまでには、苦労、苦労の連続であった。
数十人で一団となって作業を行うのだが、最初のうちはもちろん収穫はないので、人数を半分に分け、一方が開墾作業をするときに、もう一方は現金稼ぎの仕事に出る。営林署の山仕事だったり、土木作業だったりする。文字通り一つ屋根の下での集団生活で出費をおさえ、何とか糊口をしのいだという。
そのうち収穫も安定してきて、農作業に専念できるようになると、各世帯に分かれた生活が始まる。その地で産まれた子どもも出てくるようになる。
そうすると次に人々は何を始めるか?
自分達の中から、子どもの「教育係」を選ぶのである。農作業をしなくても食える分を皆でもちより、適任者にそれを提供して、彼(彼女)に子どもを託すのだ。
こうして村の学校の原型が出来上がるのだが、ここではむしろ「託児」機能が先行していることが分かる。両親ともに忙しく立ち働かなければならないし、祖父母世代ができるにはまだ集団が若い。そこで託児所兼学校のようなものを造って、そのための費用を共同で賄う。
この歴史を読ませてもらうと、地域共同体がどうやって出来ていくのか、「協働」や「公共」というものが、どういう領域で構成されていくのか、ということが、とてもよく理解できる。
直前のブログで、義務教育が児童労働から子どもを切り離す制度でもあったことを書いた。だから学校創設期には(この日本でも)、親からの激しい抵抗を受けたこともあったのだが、同時に手間のかかる年代の子を昼間安心して託せる施設として受け入れられていった面があったことも推察できるだろう。
義務教育以上の高等教育を受けられる子どもの数がごく限られていた時代には、そこで教わる教育内容への期待よりも、そちらの機能の方がより大きかったのだ。
その後に教育の効用が国民に理解され、多少無理をしてでも子どもには良い教育を受けさせたいと多くの親が願うようになって、成績や履修過程への関心が広まっていく。
近代以前の寺子屋のようなものも、教育熱心な日本人の象徴として語られるが、身分制度の時代のこと、より多くは子どもの修練と託児の場として機能していただろう。
イスラエルのキブツなどもそうだが、共同体の結束の固いところでは、子どもの養育も共同の仕事となる。
- (キブツ)『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2008年5月1日 (木) 11:25 UTC、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%84 (新しい画面が展開します)
本市農村部の保育園の興りをみても、農繁期の託児所から出発している場合が多いし、都市部の無認可保育所も仲のよい親同士による共同保育所を前身にしていることがしばしば。
何が言いたいのかといえば、生活の必要から「託児」の機能を生み出しても、人はそこに必ず教育の機能とその高度化を求めるようになるということだ。そこに、次の世代に対する社会共同の期待を託そうとするのだ。
「幼・保一元化」の流れのように、幼稚園と保育園とをこれまでのように分けることは無意味だと多くの人が感じているが、私は議論をもう一歩進めたいと強く願っている。
社会の分化・専門化が進み、家族形態が変わり、子どもをとりまく危険や脅威も高まってきた今日、若い世代が安心して子どもを産み、育て、仕事と家庭の両立をはかれるようにするには、――そしてそれ以上に、未来をになう子どもたちをより良く成長させ、教育を「再生」させるには、さらにまた社会全体の連帯をいま一度復興させるには、幼児期の義務教育化(もしくは準義務化)をためらってはならない。と、いうのが私の持論だが、この話題はもう少し続けたい。

市指定の天然記念物。
ミカワバイケイソウ。5月まで咲いています。









