「ダイヤ」と「カリキュラム」―承前
学年の編成や履修課程の編成は、ひとつのフィクション(擬制)に基づいている。特殊な例外を除けば、同一年齢の子どもは、同一程度の理解力や体力をもっていて、その学齢に応じて体得すべき学習内容を定めることで、子どもたちの学習進度も判定できる、というのがそれだ。
現実はこれとずいぶん違うことは誰でも知っているが、しかしそういう標準操作をしないと安定したシステムを構築できないのが、人間社会の常である。
実際にこういうフィクションを取り払って理想の教育制度を考えてみろと言われても、なかなか難しいことはすぐに分かる。とくにいちどきに大勢の生徒を、限られた数の教員で教えることが宿命づけられている場合には。もちろん学年・学級をこえた習熟度別の仕組みや、より個別的な指導の仕組みが、その欠陥を補完することはできるだろうが、そちらを根幹にすえようとすると、まったく別の仕組みと莫大な投資財源を用意しなければならないだろう。
だから学校制度が続けられてきた。
しかしだからといって、カリキュラムの着実な実施と学校運営の安定だけが目標になってしまうと、そこに大きな主客転倒が生じるのではないか。本源的に考えればやっぱり限界だらけなのだが、とりあえず今はそれしかできないのでそうやっているのだと、それくらいの構えでいる方が正しいのではないか。
こう私は先生方に申し上げた。
私の見方は少し片寄っているかもしれないが、鉄道のダイヤも、学校のカリキュラムも、大量生産、大量輸送、大量教育の時代の産物にすぎないことも確かだと思う。効率的・合理的なことは間違いないが、それに従順であることのみを求めていると、次の時代を見失いかねない。
もちろん近代の学校制度には、こうした「マスプロ教育」としての側面とともに、もう一つの重要な目的があって、その価値はいまでも大きな意味をもっている。私塾や家庭教師が公教育にとって替わることができないところでもあるし、学校制度や公教育制度を壊してしまってはならないと思うのも、その所以によるのだが、それは次回に。

もうすぐ鮎の季節です。
何度か紹介している「美しい愛知づくり景観600選」の一つ。鮎滝。
寒狭川(豊川本流)の出沢地区に昔から伝わる鮎漁。









