「ダイヤ」と「カリキュラム」
実に効率的な仕組みだ。
一方、どんなシステムもそうだが、それがひとたび構築され、それを基準に社会生活が営まれていくようになると、そのシステムを守り、維持すること自体が目的化され、人間の方がそれに適合するように求められていく。
いつの間にか人は、それがずっとそうであって、これからもそうあり続けるものだと思い込んでしまう。
私はこの鉄道の駅やダイヤの話を、ときどき教育関係者の集まりで取り上げさせてもらう。つい先日も当地方の教職者組織の年次総会で、「教育に求めるもの」というテーマで話をする機会があったのでこれを挿話にした。
教職の皆さん、鉄道のダイヤと学校のカリキュラムって、どこか共通点があるとは思いませんか?―こう問うてみる。
いまこれをお読みのあなたはどうだろうか。
目的を達するために用意できる資源や施設は限られているが、相手は全国民である、というような場合を考えてみてほしい。
昔の貴族や殿様であれば、子供に一人ずつの教育係をつけて帝王学を学ばせたわけだが、公教育ではそうはいかない。
教員の数も学校施設にも限度があるので、子どもたちの方を集める。どういう集め方をするのかといえば、「学齢」を定めて、その対象年齢にある子どもに学校に来なさいという。そしてその学齢ごとに教える科目と内容を決め、集団をつくり、教員を配置し、履修過程という「ダイヤ編成」にそって学校運営を段取りする。
実によくできた仕組みではないか。
私は仕事柄、毎年3月、4月には、市内の小中学校、高校、大学の卒業式や入学式に参列させてもらう。そのたびに、学校教育システムというものに驚嘆を覚える。よくぞこんなものを造り上げたものだ。壊すのは簡単かもしれないが、これをもう1度造ってみろと言われたら、きっと途方にくれることだろう。
それも本市だけの話ではない。大体同じ時期に日本中でそれぞれの学齢にある子どもたちが、卒業式や入学式に出て、証書をもらったり、送辞・答辞を読みあったり、歌をうたったり、新入生歓迎のアトラクションを見たりしている。まさにこの時、この瞬間に一斉に行われており、ほとんどの国民がそれを毎年の恒例としてあたり前のように受け入れ、協力しているのだ。
太古自然の昔からあったものではない。わずか100年ほど前に人為的に構築されたものなのに、ちょうど季節ごとの衣服を入れ替えるようにして、入るものを迎え卒えるものを送っていく。
学びたい者、学ばせたい者は、このシステムに適合しうるように生活を設計する。なるほどきわめて効率的で、合理的な制度ではあるが、果たして究極の姿でありうるかといえば、やはり大きな疑問が残るのではないか。
駅の仕組みは主客転倒だと言い切った鉄道技師がいれば、同じ目線を学校教育に投げかける教職者がいてもいいかもしれない。
皆さんはどう思われるだろうか。
(この項、続きます)
先週ご紹介した作手「古城まつり」、5月18日(日曜日)五月晴れのもと、盛大に開催されました。
関係者の皆さま、ありがとうございました。
開成小学校の生徒によるよさこい。
作手和太鼓クラブ 鼓響(ひびき)の演奏
長篠・設楽原鉄砲隊による火縄銃演武









