駅の話題を続けたい。

 

 ある私鉄に勤める友人と雑談しているとき、たまたま話題が旧国鉄のことになって、その友人が教えてくれたことだ。彼は信頼できる人間なのでとくに確かめることもしていないが、たぶん間違いないことだろう。

 

 たとえば鉄道事故が起きたとする。踏み切りで車が立ち往生しているところに列車が突っ込んだとしよう。

 

 私鉄の場合は、緊急車が駆けつけ事故処理にあたるとともに、警察がやってきて現場検証や一応の事情聴取などをした後に、列車は出発する。

 

 ところが国鉄の場合は、事故の車をどけて列車が通行できる状態になれば、そのまま列車は動いていいということになっていた。

 

 友人はそう教えてくれて、「それほど国鉄というのはすごい権限を持っていたということなんだよ」と結んだ。

 

 なるほどねぇ、国鉄はそういう存在だったんだな、そう言えば、「鉄道警察」なんていうのもあって、独自の逮捕権や発砲資格ももっていたんじゃなかったっけ?

 

 こんな風に会話は続いたが、私は始めて聞くことだったのに、妙に深く納得したことを覚えている。

 

 列車の正確な運行。これを阻害するものの排除。これぞ国家鉄道に与えられた使命と権限だったのだ。

 

 そして人や物の大量輸送という観点から考えれば、駅のシステムほど効率的なものはない。

 

 何時何分にどこそこ行きの列車が通る。それに乗りたいものは時刻に遅れぬようにそこで待っておれ。――こういうことだ。

 

 鉄道にとっては安全運行とともに、ダイヤ管理は生命線である。

 

 こういう原点をもつ時代背景のなかで、駅のあり方は非人間的であると自己評価していた国鉄マンがいたことに、私はあらためて感銘を深くしたのだった(5月15日ブログ参照)。

 

 そう、駅の仕組みはほんとうによく考えられたものだし、便利のいいものだし、いまは、それが最善のものかもしれず、他にもっといい仕組みは考えられないのだが、だが、根源的にみれば、やっぱりおかしい、主客が転倒している、いつの日にかはレトロ博物館に展示されて、へぇこの時代の人間はこんなすさまじい生活をしていたんだぁ、と、驚かれるようなシロモノなのだ・・・・・・こう考えるか。

 

 それとも。人間なんてぜいたくなものだ、一昔前までは腰の曲がったお年寄りだろうと、赤ん坊連れの母親だろうと、長い階段を上り下りしても文句ひとつ言わなかったのに、近ごろは都会の駅にエレベーターやエスカレーターでもできようものなら、すぐにウチの駅にもくれと言う、そんなに欲しいならもっと乗降客を増やして儲かるようにしてから言えばいい・・・・・・こう考えるか。

 

 どちらかで、物事に対処する仕方がまるで違ってくるのではないだろうか。

 

 人間の価値をどこに置くか。それに照らして、現代社会のシステムをどう評価するか。明日の人間社会への構想をどう持っているのか。

 

 「駅」にまつわる旧国鉄技師の方の話は、そんなことを考えさせてくれた。

 

 新城の駅、やはり何とかしたいと思う。

 

湯谷大滝

 「美しい愛知づくり景観資源600選」のうち37件が新城市から選ばれていることは前に書きましたが、今日はその中から、湯谷大滝と馬の背岩の写真を。

 

 

 

 

馬の背

実は私の通勤経路の景色でもあります。四季折々の変化も素晴らしい。