山の舟歌-解題
本日からこの市長ブログ『山の舟歌』を書き始める。本欄のあり方については、別掲の「運営ポリシー」をご覧いただきたい。
さて今から2年半前、平成17年10月1日に3つの市町村(旧新城市、鳳来町、作手村)が新設合併することで誕生したのが新・新城市。私はその初代市長に選ばれ、今日にいたっている。面積は愛知県で2番目に広いが、人口は5万人余の山あいの小都市である。
添付の写真は、市長室から毎日目の前にしている風景だ。家並みの向こうにあるのは雁峰(がんぼう)の峰々であり、その先には作手地区の高原地帯が広がっている。写真の右側にははるか赤石山系が望まれ、鳳来地区の入り組んだ集落が奥深くつながっている。
この写真の背側には清流豊川本流が流れ、桜淵公園の今は桜が満開を迎え、多くの人々で賑わっていることだろう。(桜淵公園をはじめ市内の四季折々の風景は、観光協会ホームページ (新しい画面が展開します)、または市ホームページ等でご覧ください)。
私の通う市役所の所在地は、
山あいのまちなのに、なぜ舟かといえば、そう豊川を利用した舟運で栄えたまちだからだ。また別所街道、伊那街道と、東海道から南信州、東濃へと分かれる陸路の結節点にもあたり、江戸時代から海山物産の集散地としてたいそう繁栄したのだという。かつて山の経済が活発で、木材の商いで潤った旦那衆が盛んだったころは、昼間から三味線の音が絶えなかったと、今でも古老たちから聞かされるのだが、それは何もこの新城市街地に限ったことではなく、鳳来地区などにもそんな往時の面影を伝える町並みが残っている。
作手の城主奥平信昌が長篠城を死守した戦功によって新たに築城を許されたのが新城城。さらに古きをたどれば利修仙人によって開山した霊峰鳳来寺山。この鳳来寺山に於大の方が祈祷して授かったのが家康だったというわけで、この地は徳川時代にはかなりの優遇をうけたものと思われる。
作手から鳳来とたどった後に小城下町にして宿場町として築かれたのが、かつての新城の興りだが、その隆盛のさまを象徴したものが、「山湊馬浪(さんそうばろう)」の言葉。つまりは荷馬が浪のように寄せ来たり、帆掛け舟や筏が行き来する山の湊(みなと)の賑わいこそが、この地方の富の源泉だったのである。
現代にいたる日本人の地域意識は、やはり戦国近世から江戸期に形成された政治経済圏域に大きく依存しているのだろうか。甲子園の戦いや観光地の地元自慢から名産品の命名にいたるまで、われわれはいまだに信長、秀吉、家康、信玄、謙信、正宗、利家などなどのお世話になっている。
わが市では、合併後最初の総合計画をつくろうと、昨19年度いっぱいをかけて議論を続けてきた。めざすべきまちの将来イメージ(目標)をどう表現するか、という段になって、われわれだけの知恵では限界があるとみえて、やはり古人たちの力にすがることになった。それでもこれが一番しっくりくるから不思議だ。
『市民(ひと)がつなぐ 山の湊(みなと) 創造都市』
これがわれわれがつくろうとするまちの姿であり、広い合併市域全体を現代の「山の湊」として栄えさせたいという志が込められている。
私もまた5万市民とともに、船旅に出ようと思う。非力ではあるが船頭の役目を負っている。どんな景色が見えているか。流れはどうか。山の湊はどこにあるか。
そんなことどもをつらつらと語りたいと思い、『山の舟歌』と名付けた。
生まれながらの音痴なので、調子はずれは許してもらい、ときには耳を傾けていただければありがたい。









