岩瀬忠震の絵画(館蔵)

【藤に芍薬】

 忠震は、20代のころから昌平こう(現在の東京大学)や甲府徽典館(幕府の 学校)で学んだり、あるいは先生として教えていた時期がありました。恐らく、 このころに書画を学んだものと思われます。

【藤に芍薬】が描かれたころ


 忠震が誰に絵を学んだかは分かっていません。しかし、言い伝えやその画風から渡辺華山の一番弟子である椿椿山に学んだものと考えられています。

 忠震は外交官として各国との交渉を終えた一年後の安政6年(1859)8月に江戸向島での隠居を命ぜられます。ちょうどこのころから忠震は「鴎所」と号すようになりました。このあと、忠震の書画を友とする生活が始まります。

 この絵の右上に「辛酉花月作」と書かれています。
 「辛酉」とは文久元年(1861)、「花月」は3月を表しています。忠震が 44歳の生涯を終えたのは文久元年7月ですから、この絵は忠震が亡くなるわず か4か月前に描かれたものといえます。



 幕末の外交官岩瀬忠震は外交手腕だけでなく、書画、和歌などにも秀でていました。特に、書画については素人の域を越え、明治20年に発行された「大日本名家全書」のなかにも書画に優れた人物として岩瀬忠震の名前を見つけることができます。