岩瀬忠震の手紙 - 中根雪江宛て

 幕末の文政元年(1818) に設楽原一帯を治めていた設楽家に生まれた忠震(ただなり)は、岩瀬家に婿養子として入りました。その頃の日本は、浦賀に黒船が来航するなど、大きく揺れ動きはじめた頃でした。そんな中で忠震は、外交の舞台に踊り出ていきました。忠震が中心となって、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアの五か国の公使と貿易のための交渉を行い、次々と修好通商条約を締結していきました。

 その条約交渉直前の最も苦しくて大変な時期の手紙が残されています。この手紙は安政5年(1858) 6月11日に越前国(今の福井県)の藩士中根雪江に宛てたものですが、その内容から同藩士橋本左内に宛てたものと考えられています。井伊大老のことを「愛牛」と記すなど、多くの隠語を含んだ手紙になっています。これらから非常に緊迫した幕末の政治状況を反映したものとなっています。「海外の交易の際、貿易の大綱を論じ、これをもって絶筆といたすべきや」と忠震は条約交渉に臨むときの決意を記しています。

 この手紙の8日後に日米修好通商条約が締結されています。しかし、これらの条約を締結した直後、13代将軍の後継者問題と条約調印に係る幕末政局の紛争により、井伊大老によって外交の第一線から外されました。その後、文久元年(1861)、44歳の若さで亡くなりました。