まちづくりの自治条例、昨日の話題(4月15日付け『全員まちづくり』)を引き継ぎたい。

 

 市民参加の自治条例のようなものを検討するにあたっては、「すべての市民がまちづくりの主人公・主体者」であり、「すべての市民がより良い新城市を望んでいる」との前提に立つべきだと、書かせていただいた。

 

 実際がそうであるかどうかが、問題なのではなく、どなたであろうと市民がまちづくりにかかわる必要が出てきたときに、参加しやすく、主権者として当然の権能を発揮でき、かつ利害や立場の異なる人々とも自律的なルールにのっとって行動できるようにしておくことが大切なのだ、と。

 

 それぞれの人が、そのときにどんな立場に立っているか、どんな組織・集団に帰属しているかは、あらゆる可能性がある。市職員であるかもしれない、市議会議員かもしれない、行政区の役員かもしれない、福祉団体の代表やNPOの一員かもしれない、企業の窓口担当としてかもしれない、もちろん市長かもしれないし、とくに組織や肩書きはないが一個人として大きな関心をもってのことかもしれない。

 

 そのいずれであってもまちづくりへの参画を排除されることはないし、特別扱いを受けることもない。それぞれの責任と権限を明確にして、応分の義務も負いながら、あらゆる人と力を合わせることができるようにすべきだろう。

 

 これは立法(条例も法の一種として)の精神にかかわってくるけれど、私はこんなことを思い出す。

 

 ずいぶん前のこと。日本の刑法体系をつくりあげた法曹界の大御所が、刑法とは、すべての国民は潜在的犯罪者であり、法を犯す可能性があるとの前提で組み立てられ、国民生活におけるそのすべての可能性をカバーできなければならない、という主旨の発言をしているのを読んだことがあった。

 

 告白すると、まだ若く、幼い人間観に立っていた当時の私は、これを読んで、なんという人間性否定の考え方だろう、すべての国民に罪を問える可能性を担保しようなんてファシズムではないか、という風に憤慨したものだった。

 

 けれどもある程度の人生経験を積み、人間の犯すいろいろな過ちを見聞きし、自分もたくさんの過誤を重ねて振り返ると、なるほど法の精神とはこういうものだな、と得心できてくる。

 

 「汝、盗むべからず」と定めながら、特別の立場の人間はその限りにあらずとされていたら、法の下の平等はなくなる。またとうてい許しがたい行為をする者がいるのに、あらかじめそれを想定した罰則が定まっていなければ、社会はその犯罪を犯罪としてとがめることができない。

 

 人間が犯す可能性のあるすべての罪、またすべての種類の国民が犯す可能性のある罪が盛り込まれて、はじめて公平なジャッジが成り立つだろう。

 

 自治条例は、ちょうどこの裏返し。市民が自治に参画する可能性のあるすべての場面、またすべての市民が参画する可能性を想定したルールづくりでなければならないのだ。

 

 だからすべての市民が、まちづくりの潜在的参画者であり、新城市をより良きまちにしたいと考える潜在的協働者である、との、確固とした信念と前提に立ってこのテーマに取り組むべきと考えている。